45 抵抗、祖母、探し続ける夢

「だめだめ、呪いは完璧なの、ユイはひとり、ユイちゃんはひとりだから、忘れろ、忘れろ、忘れろ」


 容赦なく殴る。力づくで押しのけると、犬飼は畳に背を打ち付けた。立ち上がる前に逃げようとふすまに向かう。だが、すぐにつかみかかってきて押し倒された。背に乗ってくると犬飼は再び殴りかかる。


「ダメだ、ダメだ。思い出すな、結衣が彼女だ、結衣が彼女なんだ」


「ユイ」


 犬飼は手を止めた。バタバタと背から下り、体を曲げ、ぐっと顔を寄せてくる。


「結衣ちゃんだよ。モモの彼女のユイちゃん。ね?」


 おれは起き上がると犬飼の胸ぐらをつかんだ。


「お前、ナギサにも何かしたのか」


「あいつになんか何もしてない、ユイはモモと仲良くしただけ、そうでしょ、モモはユイが好きでしょ」


 突き放した。犬飼がすがりついてくる。


「だめだめだめ、行っちゃダメ。モモはユイのものだから、ね、もう一回祠にお願いしに行ってくるから、待ってて、すぐ行くから」


「やめろ、いい加減にしろよ」


 指を引きはがすと犬飼はシャツに噛みついた。爪が腹に食い込む。


「離せっ、犬飼、やめろ」


 犬飼の力はすさまじかった。引き倒され、暴れたが、腹にしがみついて離れない。


 それでも這って移動する。畳ですりむけた腕が痛む。犬飼はシャツに食いついたままで獣のようにうなっている。とても人とは思えなかった。


 指先がかすめるまで移動したとき、いきなりふすまが開く。犬飼の祖母が立っていた。


 おれは抵抗をやめ硬直した。


 祖母はすり足で部屋に入ってくると、「結衣」と孫を見やる。


 この光景はしわに埋もれた細い目にどう映ったのか。犬飼はまだシャツに食いつき、うなっている。


 彼女の祖母は、犬飼の後ろ衿をつかむと持ち上げた。


「うう」と犬飼が抵抗する。祖母は犬飼を叩く。一度、二度、三度。


「結衣」ばん、ばんと音が響く。

「また悪さして」


 ぐいと力づくでおれから引き離そうとする。犬飼の爪がさらに腹に食い込み、唾液で濡れたシャツの湿り気が背中に伝わる。祖母はまた強く叩く。腹に祖母の乾燥した手の感触がした。と、犬飼の指が離れる。


「やだ、やだやだやだ」


 暴れる犬飼。だがおれはなんとか彼女から抜けだした。祖母が犬飼の腕を捻じりあげている。


「おえんじゃ、こん子は」

「やめろっ、離せ」


 つばを飛ばす犬飼に祖母は平手打ちした。その音の激しさに身がすくんだが立ち上がる。


「モモ。助けて、モモ」


 涙交じりで片手を伸ばしてくる。


「行け、はよう」


 激しく手を振り、孫を押しつぶすように体重をかけ馬乗りになる。


「いやいやいやいや」


 わめく口をふさぐ。その手に犬飼が噛みつく。殴る、打つ、蹴る、引っかく、噛む。二匹の獣が絡みあるような姿だった。後退り、ふすまにぶつかる。その音に祖母が顔をあげる。


「何しとる、行かんか!」


 おれは駆けだした。「モモ」とくぐもった声に耳をふさぐ。


 どこにいるのか、どこに向かっているのか定かじゃなかった。涙か汗かわからない雫が視界をゆがめるなか走り続けた。


 蝉の音が降り注ぐ木々のトンネルを抜け、新興住宅が建つ区画まで着てやっと速度を緩める。


 何も持たずに飛び出してきていたが、幸い携帯が尻ポケットにあった。落としてなくてよかった。安堵したら、足が震えてどうしようもなくなった。路上の真ん中だが少しも移動できず座る。


 息を吐き、空を見上げた。どうしようもなく鮮やかで、綺麗な青だった。


 家に戻ると、ナギサとの思い出が何か残っていないか探した。話しかけてきたとき、ナギサが見せた表情に胸が苦しくなる。


 スケッチブックはなくなっていた。ナギサを示すものは何も見つからない。


 でもわかる、母さんが話した「ユイちゃん」は犬飼じゃなくナギサだ、凪咲ユイのことだ。去年の夏に会ったユイ。大切なユイ。


 どうしたら許してくれるだろう。どう説明したらいいのだろう。呪いにかかっていたなんて、そんな話を信じるだろうか。


 零れ落ちた記憶をかき集めた。霞む記憶を感情で引き寄せた。すべてを思い出そう。呪いになど負けず。


 ――そして。


 いつからか、夢を見るようになった。


 繰り返し、同じ夢を見る。

 駅前、横断歩道、アーケード。


 ひたすら走っている、探している、彼女の名前を呼ぶ、会いたい、ユイ、ユイ、忘れてしまって、ごめん、ユイ……。



 ◇◇


 誰もいない何もないアスファルトの路を走っていた。誰から逃げてるんだっけ。路は上り坂になっていく。吐く息は白く、空からはチリのような雪が降っている。


 足を止めた。肩で大きく呼吸する。

 バス停があった。


 ベンチに座りかけ、やめ、また走り出そうとして、そいつに気づく。


「ダメだよモモ、逃げちゃ。モモは結衣ちゃんの彼氏なんだよ」


「来るな」


 こめかみが大きく脈打つ。痛みに顔が歪む。


「結衣がモモの、ユイちゃんだよ」


「やめろ、もうやめるんだ」


「何をやめるの。モモは結衣を幻想街から助けにきたんでしょう? 絵本を読んだよね。結衣、ナギサのせいで閉じ込められてたんだよぅ」


 何の迷いもなく、犬飼は真っ直ぐな目をして訴える。その姿に、どっと怒りがわく。


「嘘だ、全部お前のせいだろ、また祠に願ったんだな、今度はナギサまで巻き込んで」


「何のこと?」


「絵本も嘘っぱち、被害者ぶってナギサを貶めてたんだろ」


「ちがうちがう。全部ナギサが悪いのよ。あいつが呪いをかけて結衣を消したの、あいつが――」


 近づいてきた犬飼の口をふさぐ。


「やめろ、もう充分だろ。おれが好きなのはナギサだ、凪咲ナギサユイだ。お前だってわかってるだろ、もうやめろよ」


 もごもごと動く唇の感触にぞっとして、手を離した。


「ちがうちがう」


 犬飼は叫んだ。


「ナギサが結衣を消したんだ、あいつが鬼、鬼なの。ね、ね、ね。モモは桃太郎なの。それであの子が鬼なんだ、ね、退治して。退治して結衣を助けてよ、ね、ね、ね」


「やめろ」


 すがりつく手を払うと、ナギサはよろめき、恨みがましい目を向けてくる。


「ひどいよひどいよ乱暴しないでよ」

「呪いを解けって」

「結衣は悪くないもん」


 金切り声だ。犬飼は憎々しそうにねめつけてきたが、ふいに、「はあ、しょうがないのか」と息をつく。


「そう、そうだよ」

 なるべく声音をやわらげる。

「なぁ、もうやめよう。世界を戻そう」


 犬飼は力なく目を伏せている。さらに説得しようとしたとき、彼女が笑った。と、ふわっと体が浮くような感覚。目を瞬く。

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