44 凪咲さん、モモ、祠のおまじない
どこに行っても何をしていても、隣に犬飼がいる。ユウくん、ユウくんと呼ぶあの声、ねっとり絡みつく手、甘ったるく見上げてくる視線、そのすべてが嫌いだ。
息苦しく陰鬱な世界だ。記憶も狂い始め、朝から夜に一瞬で変わる。何を見ても何も聞いても、まともに頭に入らなくなった。
――そんな時だった。
「モモ」
犬飼が職員室に呼ばれていて、珍しくひとりのときだった。なんとなく見覚えのある女子が話しかけてきた。
「あの」
彼女はおれの袖を引いた。名前を知っているようで思い出そうとすると頭痛がする。それでも口にした。
「凪咲さんだっけ?」
その瞬間、彼女の瞳が不安げに揺れた。悲しそうな眼差しを向けられ、胸が痛くなる。
「何? 何かあった?」
彼女は顔を食い入るように見つめた。表情がこわばり、よろめく。袖をつかんでいた手が、力なくすとんと離れる。
「凪咲さん?」
彼女は小声で何かいった。
「え?」
問い返したが、彼女は勢いよく背を向けると廊下を走っていく。追いかけようとした。このままだと何かとても大事なものを失うと感じたから。でも。
「そっかー」
振り返ると犬飼がいた。
「ユウくんじゃなくモモって呼ぶのね。わたしもそうしよっと」
何が愉快なのか、笑いが抑えられず肩を震わせていた。
そしてこの日から。犬飼はおれのことを「モモ」と呼ぶようになった。耳障りで、そう呼ばれるたび、胸の奥が削られていくようだった。
終業式前だ。応募した記憶がないコンクールで水彩画が受賞した。あのスケッチブックに何度も下絵していた少女と朝顔の絵だった。
覚えがなく、でもその絵も見ると涙が出た。どうしてこうなったのか。自分の感情か散り散りになっていく。
「モモはどうしてわたしのことをユイちゃんって呼ばないの」
夏休み、犬飼の部屋で彼女はそうつめ寄ってきた。
「ねえ、ユイちゃんっていって」
部屋には彼女のコレクションが畳一面に広がっていた。
禍々しい絵柄のカード、難解な漢字が羅列してある紙の束、赤黒い液体の水時計、ドライフラワー、乾燥した昆虫。彼女はこれらを宝物と呼んだ。
「モモ、ユイっていうの、ユイィ」
しつこさに、ユ、と口に出したが、それ以上続けられなかった。犬飼は怒り、小瓶を投げつける。中にダンゴムシがギュウギュウ詰めに入った瓶だった。
「ねえ、ユイのこと好きでしょう?」
今度は甘えた声ですり寄ってくる。ユイのお願い聞いて、と吐息交じりで。抵抗したくもて口が勝手に動く。
「ユイ」
「そうそう」
頭をなでてくる。
「モモはユイのこと大好きだもんね」
ちゅ、とキス。反応と確かめるように身を話して見てくると、また近づきキスしてくる。抵抗する気力もなく、大人しくしていると彼女は、くつくつと笑い始めた。
「モモはユイが好き、大好き。ねぇモモ、嬉しいことを教えてあげる。わたしたち、ずっと愛し合っていられるのよ。祠にそうお願いしたから。とっても強力なおまじないなの」
「おまじない?」
「そうよ」
犬飼はおれが興味を示したのが嬉しいようだった。二度、頬にキスしてきたあと、得意げに語りだした。
「どんな願い事も叶えてくれる祠があるだよ。うんと山奥の道なき道を行くの。すごいでしょう」
「いつ、そこへ行ったんだ?」
「あら、モモも行きたいの? えぇと六月だったかな。わたし、どうしてもモモが欲しくてお願いしてきたの。そうしたら、ジャジャーンっ。無事モモと相思相愛になりましたー!」
両手をあげ、その拍子にひっくり返りそうになっていたが、すんでで首に巻きついてきて転倒を防ぐ。
「危ない危ない、もう少しでモモに押し倒されるところだったわ。だめだめ、良い子にしてなさいね」
髪をなで回し、頭を肩にもたせる。機嫌がいいらしく鼻歌を歌い始めた。
六月、その頃おれは何をしていただろう。ぐるぐると言葉が回っている。祠、願い事、叶った強力なおまじない。
……そうだ、ずっと昔に感じるが。
女子たちが、犬飼を囲んで質問していた。どうやって桃田と付き合うようになったのか、と。犬飼は、はにかみながらいっていた――おまじないが成功したのよ、と。
「モモったら怖い顔してる、怒っちゃだめだよ」
キスしてこようとする口をさけ、視線を合わせた。
「何をした」
「え?」
「何をした」
がくん、と意識が遠のく。目を開けると、犬飼がこちらを見つめている。
「また何かしただろ」
「モモ、何を怒ってるのかな」
「お前が」
責め立てようとした言葉が、蓋をしたように喉の奥で止まる。息が苦しくなり、咳込む。
「お前、ふざけんなよ」
「モモ、大人しくして。良い子にしてたら幸せになるから」
頭に触ろうとしてきた手を振り払う。
「モモ、だめ」
「お前のせいで」
「だめ」
また意識が飛びそうになった瞬間、弾けるような笑い声がする。
「もうっ、おばあちゃんたら」
犬飼が立ち上がる。彼女には腰がひどく曲がった祖母がいた。テレビをつけたのだろう、大ボリュームの音がここまで届いたのだ。
犬飼は大事にしているはずのコレクションを蹴散らしてふすまに向かう。素足に引っ付いたカードが一枚裏返った。黒猫の絵だ。
「……ユイ」
「んー、ちょっと待っててね」
「ナギサ、ユイ」
ぱっと犬飼が振り向く。
顔色が変わった。飛びつくように戻ってくると、平手打ちしてくる。
「だめ、だめだめ」
頬を打ち、こめかみを殴る。髪をつかみ、激しく揺さぶってきた。
「だめ、ダメダメダメダメ。ユイはひとり、ユイちゃんはひとりだけ」
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