3幕

43 スケッチブック、戸惑い、絶望

 ――どうして。


 犬飼結衣いぬかいゆいと付き合っているのかわからなかった。


 朝、犬飼は近所の公園まで迎えに来ていて、否応なく一緒に登校する。


 二人とも自転車通学だが、家から学校まで自転車で行くおれとは異なり、犬飼は電車のあと駅から学校までの方が近いにもかかわらず、遠回りして公園まで着ている。


 何度も迎えに来なくていいと伝えても、犬飼は譲らなかった。


「ユウくんと早く会いたいからいいの」


 そうニコニコしている。犬飼は学校に行った後も、ずっとそばにいようとした。


 歩けば、足がもつれそうな距離でくっつき腕を絡めてくる。冷やかしの視線を浴びても、彼女は恥ずかしがることなく、むしろ得意げだった。


「転びそうだから」とそっと腕を振り払おうとしても、「ユウくんはほんとにユイにやさしいね」と犬飼は喜ぶだけで効果なかった。


 授業中だって視線を感じてばかりいる。集中できなくて、「ちゃんと授業聞かないと」と注意したが、「ユウくんは、いつもユイの心配してくれるんだね」とはしゃぐだけ、聞く耳など持たない。


 休み時間が始まるとすぐ机まですっ飛んできて肩や背を触りたがる。勝手に弁当を作ってきては食べさせようとする。


 教室にいると視線が痛かった。だから昼は中庭まで移動していた。犬飼は「二人っきりだね」と寄りかかってきて、食べたいなどとは思ってないおかずを、無理やり口に押し込んでくる。


「ユウくんは、ショートの方が好きだもんね」


 ある日、長く伸ばしていた髪を、犬飼はばっさり切ってきたことがある。ひたいと耳が丸見えのベリーショート。彼女には全く似合っておらず、むしろ痛々しかった。


「こんなに短いの初めて。でもユウくんのためならなんでもやるよぅ」


 一体、いつショートカットが好きだと話したろうか。髪型の好みなんて微塵も考えたことがなく、犬飼がなぜそう思い込んでいるのか理解できなかった。


 それでも続く彼女の言葉で、事情が呑み込めた。以前犬飼が家に来たことがある。


 部屋に入るなり、「ユイが片付けてあげる」と張り切り始めた。片付いている棚を無遠慮に触り、取り出しやすい場所に立てかけてあったスケッチブックを落とした。


「わあ、上手だね」


 犬飼は断りなく絵を見始めた。猫、蝉、カマキリ、朝顔、ひまわり。自然や動物の絵が多く、時々少女の姿も描いてある。


 その少女がショートカットだった。ハンモックに寝そべっていたり、スイカをかじっていたり、ただこちらを見つめ微笑んでいたり。


「たくさん、なあに、これ?」

「去年の夏に」


 と、ふわりと意識が遠のき――見慣れない、でも自分が描いたはずのスケッチを前にして戸惑う。


「あー、模写じゃないかな、何かの」

「じゃあこの子は誰なの?」


 犬飼は肩にあごを乗せてきて、スケッチを指さす。


「さあ」

「知らない子?」

「……」

「こういう子が好きなのね?」


 ページをさらにめくると、八歳くらいの少女が朝顔を見ている絵があった。繰り返し、似たような構図で何度も描いている。


「この子は誰?」

「わからない」

「ユウくんの妹じゃないの?」

「妹はいないよ、一人っこだから」

「この子の髪も短いのね」


 犬飼は長い髪の毛先をいじり、「そっかそっか」と繰り返していた。だから彼女は急に髪を切ってきたのだろう――ショートが好きなのだと誤解して。

 

 犬飼の話では、おれから告白して交際が始まったという。


「ユウくん、ユイのこと大好きだって。彼女になって、ってそういったのよ」


 だが全く記憶になかった。彼女のどの点に惹かれたのかすらわからない。なぜ今こうして、自分の隣には犬飼がいて、それを拒めずにいるのか。自分で自分が理解できなかった。


 周りは犬飼のことを「尽くす彼女」だと思っていた。そしておれは、指図してばかりしている傲慢な彼氏だと。


 犬飼がそばにいるため、気軽に話せる相手もいなくなり、誤解を解くこともできず、冷たい視線だけを浴び続けた。


 夕食を食べているときだった。母さんが何気なく放った一言に、食べていたから揚げが喉に詰まりかけた。


「最近はユイちゃんと遊びに行ってないの?」


「ごほっ、え、誰?」


「なあに。まだ隠してるつもり? バレバレよ、ねえ」


「バレバレだね。微笑ましいことに」

 

 父さんと母さんは、咳込むおれを見ながら笑っている。


「あんなに良い子はめったにいないんだから、大切にしなさいよ」


 言葉なくうつむく。二人は犬飼といつ会ったのだろう。彼女は勝手に周囲を嗅ぎまわったりしているから、知らない間に顔を合わせたのだろうか。


 本当に、何度も犬飼と別れようとした。だがどれだけ拒もうと、気づけば犬飼はまた隣にいる。腕に指が這い、肩に頭をあずけ笑っている。


 いつから付き合い始めたのか、なぜ彼氏になっているのか。何もかもわからないのに、人生が犬飼に絡めとられ抜け出せなかった。

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