42 秘密の恋、キス
ユイとは去年の夏、会った。共に受験生だったが、彼女は勉強よりも野良猫捕獲に情熱を燃やしていた。
「名前はもう決めてるんだ」
ユイは猫缶を皿に移し替え、トッピングに猫用のかつおぶしを振りかける。惜しみなく小遣いを消費していることから、猫に対する愛……というより執念がすごく出ている。
「キビちゃん。あの子すばしっこいから」
キビキビ動くからキビちゃんだ、と彼女は説明した。良い名前でしょう、得意げに笑う姿が夏の日差しより眩しかった。
「今日絶対捕まえるよ、モモ、張りきってよ!」
彼女を好きになるのは、猫を捕獲するよりずっと簡単だった。
猫を口実に毎日会いに行った。川遊びもしたし、木陰で涼み、夏草の上に寝転んだ。図書館で宿題を片付けているとき告白した。
うまくいく自信があったが、それでもあの時の緊張は二度と味わいたくない。
一方、ユイは恋に恋している感じだった。おれより猫に夢中のようだったし、おれ自身より恋に興味があるようだった。
彼女が「手を繋ごう」と伸ばしてきた手はあくまで「恋人ごっこ」の延長だったし、日に焼けた腕を並べて比べたときも「やだー、わたしのほうが黒い」と本気で不満そうだった。腕が触れあうのにドキドキしていたのに、そんな素振りは向こうにはなかった。
だから夏が終わっても連絡しあい、デートに行けたのは嬉しかった。でもやっぱり遊びの延長ようだったが。
付き合っていることは周囲に隠していた。待ち合わせ場所を決め、知り合いに見つからずに会うことにこだわった。
わざと閑散としていそうな観光地を選び、電車で遠出した。偶然知り合いを見つけたときは、必死に気づかれないように逃げた。
ユイは秘密の彼氏がいることが面白いようだった。だから二人の間に本当に恋と呼べるものがあるのかわからなかった。それは薄く張った氷のようなもので、おれの熱でいつでもだめになりそうだった。
同じ高校に合格できた時も、このまま関係は秘密にし続けようということになった。
そのほうがこの関係が続くなら何も不満はなかった。恐れているのはいつだって、ユイがおれに興味をなくすことだったから。
「おまたせー。寒かったよね」
ユイはショートブーツを鳴らしてバスのステップを下りてきた。雪はずっと降り続いていたが積もることはなく、相変わらずちりのようだった。
夏にはショートだった髪も、この頃には肩に程長くなっていた。この日はハーフアップにして、プレゼントした青い花を模したヘアクリップをつけている。
「冷めたかも」
ミルクティーのボトルをユイの頬に軽く当てる。首をすくめたが、「あ、カイロみたい」と嬉しげに笑う。
「ミルクティーだぁ。くれるの?」
「どうぞ」
「紅茶好き、ありがとう」
停留所のベンチに座ると、彼女はボトルのふたをひねった。かちりと音がして甘い紅茶の香りがする。
「春になったらお花見したいね」
一口飲み、「始めていく場所でお花見したい」と彼女は計画を立てはじめる。ダウン越しに彼女の腕が当たる。それだけで甘く熱い紅茶を飲んだような気持ちになる。
「モモ、寒い?」
ダウンのポケットに入れていた手を出してユイの手に触る。
「つっめたー! あ、もしかして紅茶、カイロ代わりにしてたの? わたしに食べ物与えたらだめだよ。すぐ食べちゃうから。こうなったら人間カイロが温めてあげましょう」
手を両手で挟み温めようとする。
「もうっ、すごく冷たいじゃん。モモはお化けですか」
「そうかもね」
「やめてー、冗談にならないから」
ぎゅっと押し付けてくる手の熱をすっかり奪いそうで。引き抜こうとしたが、「こら、大人しく温まりなさい」と叱られる。
「あのね、すっごい変な話するんだけど、『あれ、モモって実在するよね?』ってちょっと怖くなるときがあるんだよ。メールしてても、本当はモモはいなくて、全部わたしの妄想かもって」
笑っているけど慎重な口ぶりから本音なのだろう。ユイは挟む手を見つめながらいった。
「だからこうして会う前は緊張する。もしもわたしを見ても何も反応しなかったらどうしようって。でも」
と視線をあげた。
「モモ、会って目が合った瞬間、ちょっぴり笑ってくれるでしょ。その時、ほっとしてるんだ。可愛いこと思ってるでしょ」
ユイは視線をそらすと、ブーツの爪先でいアスファルトを軽く蹴った。
三月。二人とも無事志望校に合格した。嬉しくて会った瞬間どちらともなくハグしあった。
それから隣県まで出向き、街中の花見スポットに遊びに行った。満開を期待したが、桜はまだ蕾だ。それでも花見客はちらほらいて、昼間なのに酔ったのか騒がしい集団もいる。
「モモはモテるよねぇ」
枝を見上げながら、ナギサがいう。
「何いきなり」
「高校入ったら、ますますモテるだろうなって。告白されてもまた断ってね。いちおう彼女いるんですから」
「いちおうなんだ」
「だって」
ユイは桜を見上げたまま肩をすくめる。
「まだキスしてないから」
その言葉を曲解したわけじゃないだろう。こめかみにキスしたら、すぐそばで視線があった。
だから軽く唇を触れさせる。春のやわらかく暖かい風が通りすぎていく。ほんの一瞬の出来事だったけど、あの一秒は時を止めた、恋の味がした――はずだった。
「お前」
「モモ」
微笑しているユイは、おれの知るユイではなかった。
頭痛がする。
ガンガンと頭蓋骨から砕けそうだ。
「モモぅ」
甘ったるい声。頭上の桜が消える。誰もいない、ぽつんとユイとおれだけがいる灰色の世界。
「モモ、もっかいキスしよ」
近づいてくる姿に嫌悪しかなく。口を拭い、走って逃げる。だが腕が腰に巻きついてくる。
「やめろ、離せ」
「ねえ、どうして逃げるの」
「離せよ。記憶を消すだけじゃなく上書きまでするつもりか。ユイはお前じゃないっ、ナギサだ、
くすくす、とそいつは笑う。
「上書きって何のこと? ずっとユイはひとりだよ。あっちはナギサ、わたしがユイちゃん。モモの大切なユイちゃんは、わたしひとりなんだよ」
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