30 犬猫論争、花言葉、おねだり

「――と、まあ。結局、彼氏はクズ野郎だったのよ」


 ナギサはゴツゴツ、本を叩く。でも、と彼女は苦笑する。


「また夏休みになると、この二人は夏祭りで顔を合わすの。彼女は最初びっくりして逃げ出そうかと思うんだけど、やっぱり彼といると楽しくて、たこ焼きを……」


 と、ナギサは、ふわっ、とのけぞり。


「……で、何だっけ?」


 目を瞬いている。

 


「ラストは?」おれが聞く。

「小説の最後はどうなるんだ?」


「え、終わりは……終わりは」


 ナギサは「どうなるんだっけ」と本を開く。


「ラストは――」とその時。


「にいに」


 ぱっ、と二人して戸口に目をやる。妹がいた。ドアを開けた隙間から顔だけ出して、目を細くしてナギサを見ている。


「このひと、だーれ?」

「え。あ、ああ」


 立ち上がり、ドアを大きく開ける。妹は部屋に入ったが、むっつりしている。


「高校の同級生」

「ナギサです」


 笑顔で軽く手を上げるナギサ。だが妹は目をさらに線のように細くするだけで黙っている。とんと背を押して「何かいえよ」とうながした。


「にいに」

「ん?」


 妹は腹に抱きついてくると、べったりした甘え顔で見上げてくる。


「おなかすいたぁ。なにかつくってぇ」

「母さんは?」

「また、そといった」

「じゃあ、菓子でも食べたら?」

「ない」

「ほんとか?」


 絶対何かあるだろ。買い物して帰ったばかりなんだし。


 でも妹はぶんぶん首を振り、甘えた声で「ないもん。なーんにも」と腹に頬ずりする。


 どうしたもんか、と困っていると、ナギサが、「あ、もう帰ろうか?」と立ち上がる。本を棚に戻し、リュックを手に取った。


「え、でも」


「修二くんたち、全然反応ないままだし。明日か、月曜に学校で話せばいいよ」


 ナギサがリュックを背負い、部屋を出て行こうとすると、妹が「それ」と声をあげる。リュックについている毛玉のキーホルダーを指さしていた。


「くろのモフモフ。わんちゃん?」

「猫、かな?」


 ナギサは、キーホルダーを触り、首を傾げている。


「ねこぉ?」

「なんとなく、猫だと」


 ナギサは戸惑いの表情で、毛もじゃを握ったりなでたりする。


「どっちでもいいだろ」


 どう見ても、ただの真っ黒な毛玉だ。でも妹とナギサは犬猫論争を始めてしまった。


「わんちゃんよ」

「猫です」

「モフモフは、いぬだもん」

「猫だってモフモフよ」

「さわらせて」

「……いいけど」


 リュックについたままの毛玉を、遠慮なぐにゃぐにゃこねくり回す妹。ナギサは、「つぶれちゃうよ」と明るく、でも断固と手が届かない場所まで下がった。


「あなた、犬が好きなの?」


 妹は答えない。


「そうだよな」


 代わりに答えて、ぽんと妹の頭に手をやる。妹は「ねこきらい」と、ずばっ。


「そう。わたしは好き。モモは?」

「あー、うん。好きかな」

「えー」


 妹が不満げな声をあげ、ぐーで叩いてくる。


「にいにも、わんちゃんでしょー」

「犬は家来でしょ」


 ナギサが小声でいう。妹にも聞こえたのか、「家来じゃないもん」と言い返した。


「でも桃太郎の家来は犬だから――」


「犬も好きだな」おれは声を張った。

「猫と犬、どっちも好きだ」


「でもでも。にいには、いぬのほうがすきよね?」


 抱きつき見上げてくる妹。その訴える眼差しに、つい、「うん」とうなずきかけると、ナギサが、「じゃあ、お邪魔しました」と出て行こうとする。


「ちょ、ちょっと待って」

「にいに!」

「え、何?」


「おなかすいたー」

「冷蔵庫、見て来いよ」


 ぷくうと頬をふくらませる妹。ナギサは、立ち止まり、「いいね、二人とも仲良くて」と微笑する。目の奥が怖かった。


「仲は良いけど、そのぉ」

「わたし一人っ子だから、うらやましいな」


 ぜんぜんうらやましそうじゃなく、そういうナギサ。と、妹がいきなり、「それほしいっ」と手を伸ばす。


「それ?」


 ナギサの眉がぴくりと動く。


「うん、その髪についてるの」


 妹は、背伸びしてさらに手を伸ばしている。


「このクリップのこと?」

 ナギサは髪に手をやった。

「うん」

「こら、だめだって。何欲しがってんだよ」


 妹の手を下げさせようとしていると、ナギサは、「いいよ、あげる」とヘアクリップを外す。ハーフアップにしていた髪が、はらりと落ちて輪郭を覆った。


「ありがとー」


 ぴょんと跳ねるように受け取る妹。「うふふ」と宝物をもらったように胸に抱えると、ゆっくり大切そうに手を開き、「おはなぁ」とにんまりしている。


「やっぱ、わるいって」


 手から奪おうとすると「だめー」と叫んで、妹は廊下を走っていってしまった。


「ごめん。すぐ取り返すから」

「いいって」


 ナギサは片方だけ髪を耳にかけると、顔をしかめた。


「妹さんのほうが似合うよ。わたし、いつ捨てようかなって思ってたところだから。あの花、青くて朝顔みたいなんだもん。もう、わたしには似合わないでしょう」


「そうかな」


 妹が階段を駆け下りていく軽い足音がしている。ナギサはそっちに視線をやったが、その瞳は、追憶するようにぼんやりしている。


「あの花はもう枯れたの。知ってる? 朝顔の花言葉」


「いいや」


「西洋朝顔の花言葉はね――」


『愛情の絆、堅い約束』。


「モモ」

「ん?」


 視線がおれを見た、その瞬間。ナギサは、ふわ、と後方に倒れそうになる。慌てて腕をつかむと、ぱっと目が合った。


「えっ、え?」


 さっと顔が赤くなり、「何っ、どういう状況!」と焦っている。


「貧血かと思って。今、倒れそうになったよ」

「え、そう? でも、わかんない。大丈夫」


 手を離すと、ナギサはすぐに数歩分の距離をとる。手櫛で髪を整えると、「あ、落とした?」と足下を見回した。


「もしかしてヘアクリップのこと?」

「う、うん」


 きょろきょろしているので、「妹が」と声をかけると、彼女は、はっと顔を上げた。


「そうか。そうだった。何やってんだろ、ぼけてるね、わたし」


「いや」


 ――今、記憶が飛んだよな?


 猿川に起こっていたのと同じだ。ナギサも何か重要な記憶が消えた。呪いをかけたやつにとって、邪魔になる重要な記憶が。


「ナギサ。今、何か思い出してた?」


 そっとたずねてみる。でもナギサは聞こえていなかったのか、髪を触りながら、くすっと笑う。


「でも妹さん、あのクリップ使うまで時間かかるかもね」


「え?」



「だって髪、すごく短いから。おさるさんみたい」


 と、彼女は慌てたように付け足した。


「あっ、似合ってるよ。可愛いな、って意味」

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