29 新しい彼女、絵、涙と黒猫
――それは、本当に突然だった。
彼に恋人ができた。
相手は同じクラスの女子。噂では彼女のほうから彼に告白したらしい。二人はクラスで最初のカップル成立というので、冷かしの対象になったが、本人たちは、まんざらでもないようすだった。
特に、彼女のほうが嬉しそうで、顔を赤らめ、「おまじないのおかげ」と乙女チックなことを話し、彼はというと、恥ずかしがる素振りもなく、「ただ付き合ってるだけだろ」と騒ぐ周りを冷たくあしらっていた。
二人は一緒に登下校して、休み時間や昼休みもいつも二人でいた。仲が良さそうだった。初々しくも堂々としていた。
だから彼女は――夏に出会い、彼と以前から交際していたはずの少女は戸惑ってしまった。
高校に入っても交際していることは周りに秘密にしていた。高校でも、初めて会ったような態度をとった。
心の中では、こそばゆくて笑っていても、周囲には悟られないようにして、恋心を大切に育んでいた。
もちろん付き合いを隠していた理由は、ただ恥ずかしいから、という他愛のないものからだったのだが……。彼のほうでは、そうではなかったのだろうか?
ナギサは、とん、と本を強く叩いた。
「つまり、彼は彼女がいたのに、他の人と付き合ったの」
「二股?」
たずねると、ナギサは顔をしかめる。
「ううん。彼は……なかったことにしたんだ。全部、夏の思いでも、そのあとも。全部」
――自分がいるはずなのに、なぜ他の子と付き合うのか。
何が起こったのかわからなかった彼女は、彼に理由を問おうとした。
自分のことが嫌いになったのか。
相手の子のほうが好きだから別れたいのか。
でも、出来なかった。
「彼の態度は冷たかった。というか、他人行儀で相手にもしなかった」
学校で彼がひとりでいるところを捕まえて、彼女は話しかけた。ねぇ、どうして無視するの? すると彼は……。
とても驚いていた。戸惑いの表情で、不思議がるように苗字を呼んだ。
**さんだっけ。何? 何かあった、と。
その記憶をなくしたような顔を見て。
彼女は何もいう気が起こらなくなった。
怒りはなかった。
ただ揺らめいていた望みの灯が、ふっと消えた。
自分ひとりだけ、長い夢でも見ていたようだった。
元々、秘密にしていた恋だから。
友達たちの誰もが、彼女が大切にしていた恋を知らない。注目の話題を――クラスで誕生したカップルの話を、彼女の前でも平気でする。
お似合い? どうかな。ちょっと釣り合ってないかも。**くんは、ああいう子が好きなんだね。ぶりっ子だよね。バカっぽくて可愛くないのに。告白してきたからじゃないの。誰でもよかったんだ。軽い子が好きとか?
会話には嫉妬も混ざっていたようだ。彼女は、グループの会話を耳にしながら、自分が思っていたよりもずっと、彼は女子に人気があったのだと気づいた。
もしかしたら。
彼は、秘密の恋が、不満だったのかもしれない。
新しい彼女と付き合う彼の態度を見ているとそう感じるようになった。自分といるときは、あんな風ではなかった。腕を絡められても堂々と歩くような、あんな人ではなかった。
いつも目を合わせるのすら恥ずかしそうだった。二人でいるといつも気恥ずかしくて、そわそわして赤くなってばかりいて。
自分と同じで、初めての恋に浮足立っているようで。でもとても大切に思っていた。
だから秘めていたかった……、そう自分だけが勘違いしていたのだろうか。
何度も、いつも、「好き」と伝えていたら。もっと可愛く、素直でいたら。隠したり、恥ずかしがったりしていなければ。後悔はたくさんあったが、彼女は泣くに泣けずにいた。
あまりに彼の態度が冷たすぎたから。
本当に自分との思い出は何もなかったかのような、自分だけが、異なる世界で夢でも見ていたかのような。
あの人の変わりよう。彼女は、自分がおかしくなったのでは、と思った。去年の夏、彼と出会ったことも、こっそりデートしたことも、プレゼントやキスも。
すべて自分が作りあげた記憶だった、そんな恐ろしい考えが、彼女を襲う。
でも。
あの夏は、現実だった。
夏休みに入る直前。彼が中学生の頃に応募した水彩画が賞をとった。全校集会で賞状を受け取る彼の姿を、彼女は見ることができなくて、下を向いたまま拍手した。
絵が上手なのは知っていた。去年の夏だって、いろいろと描いていた。小さなスケッチブックに、空や木々、虫、花、猫。
コンテストに出していたのか。そんなにも才能があったのか、と小さく笑う。
趣味だと話すから、彼の描いた下絵に色を塗って遊んでしまった。何度も何度も。
笑っていたけど、本当は嫌だったんだろう。きっと絵をめちゃくちゃにされて、腹を立てていたはずだ。
「……ごめんなさい。わかってなくて」
彼の受賞を、付き合っているあの彼女は、自分のことのように喜んでいた。いや、彼よりもずっと喜び、自慢していた。
対して、彼のほうは、受賞を苦にしているようだった。隣で褒める恋人を煩わしげにして、憂鬱そうだった。
そんな彼の態度を見て。
別れればいいのに、そう思ってしまった。
でも彼が不機嫌になる理由を知って、彼女はさらに落ち込んでいく。
受賞した絵は、美術室がある廊下に展示することになった。上手だね、すごいね、そう褒め、眺める。
彼と付き合うあの彼女は、何度も繰り返し自慢した。すごいでしょう、上手だよね、**くんは才能があるんだよ、と。
彼はそれを嫌がる。廊下に飾るなんて、と不機嫌になる。いつまでああしているのか、と先生に絵を外すよう頼みまでする。
どうしてなのか。
その絵を目にして。
彼女は、彼が嫌がる理由を理解した。
絵には、青色の朝顔と少女が描いてあった。ショートカットの少女は、白いノースリーブにデニムの短パン。ピンクのサンダルは片方だけ脱げている。
坂道になっている石垣に咲く朝顔を見て、微笑んでいる絵だった。絵のタイトルは、『ヘブンリーブルー』。
「これって**くんの妹かな?」
誰かが指さしている。「いや」と別の誰かが答える。
「そのまま描くと恥ずかしいから、八歳くらいの設定にした、って。本当は」
もっと話を聞きたくて、彼女はこっそり近づいた。男子と女子が話している。クラスの子ではなかったが、同級生だろう。男子がニヤニヤ笑いながら声をひそめる。
「あいつ中学のとき、他校に彼女がいたんだ。ヘアアクセ買ってるとこ目撃して、しつこく聞きまくったら白状した」
だからこの絵のモデルは、あいつの元カノなのだと。絵を褒めても嫌がるのは、そういう理由からだ、と、その男子は説明する。
「じゃあ**さんは、そのこと知らないんだ」
「そりゃ、そうでしょ。あんなに嬉しそうに自慢してんだよ、いえないでしょ」
「じゃあ、あんたも秘密にしないとじゃん」
そっか、なんておどけて。ゲラゲラと笑いが起こる。当の元カノが、自分たちの真後ろにいてスカートの裾を握りしめているとも知らずに。
その日、帰宅した彼女の瞳から、やっと涙がこぼれ落ちた。ふわふわと現実が現実でないような、実感の持てなかった悲しみが、どっと押し寄せてくる。
一度泣くと、止めるのが難しくなった。初恋だった。本当に好きだった。大切だった。あの夏の日々も、秋も、冬も、春も。煌めく思い出たちのすべてが愛おしく、狂おしかった。
でも彼にとっては、消したい記憶になっていた。彼女は泣いた、泣いた、泣いた……熱く痛い涙だった。
飼い猫が優しくすり寄ってくる。元々は野良だった黒猫。すっかり懐き、自らひざに乗ってくる。
黒猫は、彼のことを覚えているだろうか。
あの夏の日々を。自分だけが恋していたあの月日を。この黒猫は覚えているだろうか。
その黄色い瞳は何を思っているのか。ぺろりと落ちた涙をなめた舌、見上げる眼差しは、彼女に何を伝えようとしているのか。
わたしだけが夢見ていたのでしょう。
恋していたのでしょう。
でも、確かにあった現実だったとわかって、彼女は、やっと泣くことができたのだ。黒猫は、そのことをよくわかっていた……。
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