27 転がる猫缶、ツナの誘惑、二人の朝顔

 ――ある夏の日。


 彼女は、大量の猫缶を手にレジに向かった。だが加減をしらなすぎたためか、持つのに苦労して、レジに着く前に盛大に落としてしまう。


 恥ずかしがる彼女。と、その猫缶を拾う少年がひとり。彼は家まで猫缶を運ぶのを手伝ってくれるという。


 果たして二人は、道すがら、すぐに親しくなり、その夏の間、多くの時間を一緒にすごすようになった。


 二人の朝は早かった。野良猫を捕獲することに情熱を燃やしていたからだ。


 早朝、彼女は起き抜けに大量の猫缶を開ける。滞在する祖父母の家の庭とその周辺に、餌を置いて回るからだ。


 彼女が忙しくしていると、ドライフードの大袋を抱えながら、坂の下から上がってくる少年と合流する。彼は、ヘンデルとグレーテルよろしく、パラパラとドライフードを撒いて歩いてきたのだ。そうして……。


「ごめん、ストップ!」


 おれはナギサの語りを制止した。


「恋愛ものだよね、その話」

「そうだよ。大恋愛だと思うね、わたしは」

「そうか、わかった」


 黙って続きに耳を傾ける。


 ……二人が捕獲を目指しているのは、真っ黒な猫なのだが、猫は警戒心が強く、餌を食べようとしなかった。


 だから置いた猫缶は次々とカラスに食べられ、バラまいたドライフードもアリがたかるばかり。それを見た彼女の従兄弟たちが笑う。


「はっはっは。だからいったじゃん。猫なんか簡単に捕まるものか」


 悔しい。二人は猫缶を地面に投げつけた。と、猫缶はカラカラカラ……、坂の下まで転がっていく。


 ああ、大変っ。


 彼女があとを追う。彼も彼女を追って走る。すると、ぴた、と猫缶が止まる。


「あ、あの子よ!」


 ナギサが、勢いよく指をさす。迫真のあまり、その指先に何があるのかとおれは見た。あったのは妹が置きっぱなしにしていたバービー人形(ビキニ着用)だった。


 ナギサは続ける。


「あの猫だわ」


 二人が捕獲しようとしている黒猫が、缶を片手で止めていた。


「にゃあ(おめーらに捕まるわけにゃーよ)」


「どうしてよ。でろんでろんに、かわいがるのにっ」


 地団太を踏む彼女。黒猫はぷいと背を向けて立ち去る、尻尾をユラリとくねらせながら。


 うなだれる彼女の肩を、彼はそっと叩いた。


「また買ってこよう。猫缶」


 ……はい?


「それから」

「待って」


 再びストップをかけると、彼女はうっとりしていた目を瞬き、「今度は何?」と怒る。


「恋愛って、猫との恋愛話?」


「猫がつないだ恋よ。それから、二人は手が触れ合いそうな距離で並んで歩くと、猫缶を買いに、その集落で唯一の商店へ出向き、再び大量の猫缶を……」


「ナギサ。あのぉ、もうちょっと、ざっくり説明してもらえる?」


 ちっ、と舌打ちが聞こえた気がしたが、気のせいだろう。


「それから」とナギサは仕切りなおす。


「二人は夏のあいだ、たくさんの素敵な思い出を作るの」


 ある日、二人は陽光きらめく河原へ遊びに行く。

 

 浅瀬で足を跳ねさせ、きゃっきゃ、と水をかけあう。


 と、彼女のサンダルが脱げ、川を流れていく。彼がすぐに拾おうとしたのだが桃色のサンダルは、どんぶらこっこと、どこまでも流れてゆき、とても追いつけなくなった。


 だから彼は彼女を背負って帰ることにした。重いでしょう、と遠慮がちに背につかまる彼女がいじらしく、少年は顔が赤く染まる。その色を彼女が気づかないといいのだが、と夏の暑さのせいにして歩く。


 坂の下までいくと、運悪くスケボーをしていた彼女の意地悪な従兄弟たちに出くわした。「ひゅー、ひゅー」と冷やかす悪童ども。


 背に乗る彼女が、「靴、持ってきてっ」と叫ぶ。悪童どもは、からかいながらも、つっかけを家から持ってくると二人めがけて、投げてよこした。


 裏の軒下にずっとあったのだろう、汚いつっかけを履きながら、彼女は彼に対して、ぽつりという。


「いつもありがとう」


 ナギサはうっとり息を吐く。余韻を楽しむかのような沈黙。


「……うん。で?」

「で。って、何?」


「え、いや。それで、二人は最後どうなるわけ?」


「最後?」


「ハッピーエンド? それとも夏の思い出だけで、さよなら?」


「さよならじゃないよ」


 ナギサは本を強く抱きしめる。


「二人は朝顔が咲くのを待ってるの」

「猫は?」

「猫はツナサンドで捕まるの!」


 猫は、彼女がサンドイッチ(ツナ味)で誘惑しているあいだ、背から忍び寄った彼によって捕まった。猫を、今だ、と押さえつけ、その隙に、彼女がリードをつけた首輪をはめたのだ。


 ウガガガ(しまった)と騒ぐ猫。二人は、やったー、とハイタッチした。


「彼女が、猫を抱きあげていうの。『あら、雄かと思ったら雌なのね』」


 ナギサは本を猫に見立てて抱くと、「キリッとした雌ね」と引き締まった表情をする。


「えーと、で。朝顔はどこから……?」


「あのね。二人は、朝顔が咲く瞬間を一緒に見ようって、朝早くから石垣に伸びたツルにつく蕾を観察しているの。でもその朝顔はいつの間にか、引き抜けれて枯れてしまうの。二人は従兄弟たちの仕業だね、って」


 朝顔は西洋朝顔だった。「おばあちゃんちの、ヘブンリーの種が飛んだのね」と彼女がいう。ブルーの花を咲かせる遅さ咲きの朝顔だ。だから八月の初め頃では、まだ花は咲かずにいたのだった。


「ヘブンリーって何?」

「朝顔の品種」ナギサが冷たい目で返す。

「タイトルにあるでしょ」


「あ、ああ。何か聞いたことあると思った」


 以前も誰かが、「朝顔の品種だよ」と説明していたような気がする。ぼんやりと、ブルーの花が咲く緑のカーテンが軒下に仕立ててある日本家屋を思い出した。満開に咲いたようすは美しく、でも、やっぱり石垣にあった朝顔が咲くのを見たかったねと……あれ?


 何か思いだしかけ、戸惑っていると、ナギサが、「ヘブンリーは、うちにもあるよ」といった。


「今も咲いてる。タネをもらったから」

「もらった?」

「そうだよ。今年も種をまいたの。有名だよ、ヘブンリー」


 石垣にあった二人のヘブンリーは咲かなかったが、祖父母の家に咲いた朝顔の前で二人は携帯で写真を撮った。


 彼はこっそり、花を見て微笑む彼女を撮影した。あとで絵に描こうと思っていた。少年は絵が趣味だったから。


 そんなことを、彼が密かに計画していたなんて、彼女は知らなかった。あの日、あの場で苦しみながらその絵を見るまでは。


「あの日って?」


「んもうっ。順序があるの。あとで出てくるから」


 怒るナギサに、「ごめん」と今日何度目になるかわからない謝罪をした。


「モモ、この本、全然読んでないでしょ」

「あー、うん。白状すると全く読んでないです」


 ナギサは、「はあ」と嘆息する。


「じゃあ、黙って聞いててよ。わかった?」

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