21 野良猫、蝉、彼女の名前

 彼女は同い年の中三だった。


 夏休みを祖父母の家で過ごしているそうで、毎年の恒例行事だという。


 同じように、中一と小五の騒がしい従兄弟いとこたちも来ていて、家の中はちょっとした戦場のようだと笑う。


「それでね、野良猫が最近、庭先に来るようになったんだ。だから、わたし、捕まえて飼おうと思って。でも従兄弟たちは『野良は懐かない』って、うるさくって。生意気なんだよね。わたしがやることは、全部バカにして。ガキなんだよ、ガキ。絶対懐かせるんだから」


 ぐっと決意のポーズをして前を見据える。


「だから猫缶を?」


 だとしても、買いすぎだと思うが。


「うん、餌付けするの」


 彼女はこっちを見て笑った。


「でもまだ警戒してるのか、食べないの。だからたくさん買って、あちこちに置いてみるつもり。あ、ドライフードのほうがよかったかなあ」


 立ち止まり、店に戻るかに見えたので、「また買いに行ったら」と、引っ張り加減で前に進んだ。


「うん。でもあの店、4キロの大袋しかないんだよ。おかしいよね、犬用は小袋も置いてるのに。まあ猫缶もたくさんあると重い……」


 また立ち止まる。


「ご、ごめんなさい。そっち重いよね?」


 首を伸ばして、反対側の手に持っている袋を見てくる。


「わたし、持つよ」


「平気だから。あのさ、大袋買うなら、そのときまた声かけて。あの店、毎日くらい通ってるから。猫もどんな子か気になる」


「本当?」

「今くらいの時間にいつも出歩いてるから」


「猫も見たい?」

「見たい」


 ぱあっと笑顔。孤独な戦いをしてきたのか、猫に興味を持ったことが嬉しいらしく、わずかに距離を詰めてきて声を弾ませる。


「真っ黒なんだよ。目は綺麗な黄色。まだ子猫なのかな、ちょっと小さくてかわいいの」


「雄雌はわかってる?」


「ううん。でも顔つきからしてオスだと思う。キリっとしてるからね」


 キリっとした顔をするので、つい吹き出してしまった。


「う。顔に出てた?」

「キリっとしてた」

「ああ、恥ずかしい」


 ひたいを、ぺち、と叩き、うなだれる。


「わたし、顔に出やすいんだよね。それでよく笑われる」


「良いじゃん、素直ってことで」

「そうかなあ」

「良いと思うよ」


 そんな会話のあと、木陰が続く路に出た。蝉が大音量で鳴いている。まっすぐ行くと、直に坂が見えてくるそうだ。


「本当に上まで来る?」

「うん」

「本当に?」


 ずいっと顔を見てくるので何だろうと思ったが、「ああ、従兄弟か」と彼女が気にしているのが何かわかった。


「行ったら騒ぐ?」

「たぶん。ヒュゥ、男来た、ヒュゥってからかってくるよ。すごいんだから」


「あぁ、そいつは」

「嫌でしょ」


 ぎゅっと鼻にしわが寄る。一体、どんなすごい従兄弟たちなのか気になってくる。


 でも彼女は嫌がっているようなので今日は遠慮しておく。また彼女とは会えるだろうし、猫を見に来る気で満々だったから。


「じゃあ、家が見えてくる辺りで引き返すよ。それでいい?」


「う、うん。ありがとう」


 木陰が終わると坂がすぐあった。陽を浴びて石垣が白く眩しい。


「あのさ」


 中腹あたりまで行ったとき、声をかける。そろそろ、家が見えてきそうだった。


「名前、何ていうの?」


 彼女は目を瞬いた後、ふわりと笑った。


 ショートカットのサイドを耳にかける。すっきりとした頬のラインと線の細い首筋が際立った。


「まだ、いってなかった?」


 彼女の背では、朝顔のつるが石垣を登るように伸びていた。花はまだなく、葉ばかりが茂っている。


 彼女が名前をいった瞬間、どく、と胸が大きく高鳴った。捕まった。恋したと気づくのに、時間は必要なかった。


 この夏がまだまだ続くのを、おれは世界中に感謝した。彼女の名前を口にするだけで体温があがる。


「――ユ、イ」


 がくんとひざが抜ける感覚がして、目を覚ました。


 朝だ。日差しを浴びるレースのカーテンが、壁紙に模様を浮かべている。


 胸のあたりに小さな手が、ちょんちょんと、触ってくる。


「にいに?」


 妹が眉を寄せ、唇をすぼめていた。くしゃりと頭をなでると、ぎゅっと目をつむり、「いやーよ」と文句。


「何が、いやーよ、だ」


 時間を確認すると、まだ六時半だ。今日は土曜日。二度寝できるけど、すっかり目が覚めてしまった。


 起き上がると、パジャマ姿の妹は、何かいいたげに、もじもじとこちらに視線を向けてくる。


「どうした」


「んんー、あのねー、にいに、ねごとをねぇ、いってたのぅ」


「マジか」

「マジだよー」


「何いってた?」


「きゅいー、きゅいーって。にいに、こわいゆめ、見た?」


 夢か。目を軽く閉じて思い返そうとしたが、怖かったとか、面白かったとか、そういう漠然とした感覚すら、全く記憶になかった。


「覚えてないなぁ。何か夢は見た気がするけど」


「わすれたの?」


「うん。何をキュイキュイいってたんだろうな。こえぇな、おれ」


 ぷくく、と妹は口に手をやって笑う。


「にいにったら、おかしーんだ」

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