16 教室、血、好きといったよね?
――教室だ。
高校じゃなく、小学生時代の教室。黒板の横には標語のポスター、係当番の表、後ろのロッカーには体操服が入る袋、廊下を挟んで設置してある棚にはランドセル……。
でも机や椅子は今のサイズで並んでいて、教室が狭く感じる。
ひとつだけ、窓が開いていてベージュ色のカーテンが風に膨らみ、外は夕焼けが広がっている。教室全体が陽の色に染まっていた。黒く伸びる影が早回しをするように移動する。
がらりと前のドアが開いた。とっさに身構えたが、現れたのは拓海だった。
「なんだ、お前か」
安堵の息を吐く。拓海はドア口で立ち止まったまま、窓のほうばかり見ている。
「どうした?」
「あ、ああ」
返事はしたが、視線が合わない。
「拓海?」
「うん」
拓海は窓に向けていた視線を足音へと下げると、とぼとぼと頼りない足取りで近づいて来た。
「何かあったのか?」
声をかけ、表情をうかがおうと覗き込もうとすると、急に顔をあげる。
橙の陽が色満たした教室だから、わかりにくかったけれど、拓海の顔色はよくなかった。白く、薄く開いている唇だけが奇妙なほど赤い。
「モモ」
拓海は吐息交じりにいうと、机に腰かける。身体が重そうだった。
「大丈夫か? おれ、猿川と会ったよ」
拓海は「そうか」と返事したが、視線は再び窓を見ている。何かあるんだろうかと振り返ったが、沈みかける陽が空や雲を染めているだけ。橙、朱、紫、藍。影を伸ばしながら、教室も外も変化していく。
「ここ小学校のときの教室だよな?」
おれがいうと、拓海はこく、とうなずく。
「懐かしいよなあ」
また、こく、とするが、会話したい気分じゃないらしい。おれも机に腰掛け、窓のほうを見やる。
陽が落ちかけている。空の端が暗く、教室に伸びる影も闇に溶け始めている。薄ら寒くなり、腕をさすった。
「今日も合流できなくて悪かったよ。いつもとはべつの場所にいたんだ。ほら、前にお前が話していた場所だと思う。スラム街とか中世風の街並みとか。それで、長い階段があって、進んだら商店があるって、猿川がいったんだけど」
横目で確認するが、拓海は話を聞いているのかどうか、ただ窓ばかり見ている。それでも沈黙が苦で、話を続けた。
「そう、影が出たんだよ。鬼だって猿川はいうんだ。あいつ、すごくてさ。格闘技でもやってんのかなぁ、鬼を蹴るわ殴るわ」
「モモ」
拓海がこっちを見た。ぎくりとする。ピンボールみたいに眼球が飛び出そうになっている。
「モゥモ」
濁った低い声。
「モ、モ、モ」
つぅ、と口の端から血が落ちていく。
「おい、拓海っ」
ガフ、と拓海は咳をする。ひと筋だった血が口の両端から、そして、がば、と大量の血液を吐く。
「モ、モモモ、モモモ」
血を吐き出し続けながら近づいてくる。机にぶつかるのもかまわず後ずさった。拓海が左右に大きく揺れながら迫ってくる。血が飛び散る。びちゃびちゃと音がする。
窓際まで追い詰められた。拓海の目からも血の涙が噴き出す。ぴゅうぴゅうと頭からも噴出して、水をたっぷり入れた風船に次々と針で穴を開けていくように、体中から血が細い糸のような線を描き始めた。
「拓海、やめろよ」
拓海はさらに追い詰めてくる。窓を割らんばかりに背を押し付けて下がる。容赦なく血を浴びた。温くまとわりつくようでさらりとした血液が口にまで入りそうになる。
窓から飛び降りようかと首をひねる。三階にいるらしく、下はざらつく土。舗装してある地面よりマシだろうと、顔をかばいながら窓を後ろ手で開けようともがいた。すると眼前まで迫っていた拓海が、わずかに顔を離した。
口をもごもごと動かしたかと思うと、ぽろ、とひとつ。また、ぽろ、ぽろ、ぽろ、と口から白い粒をこぼれ出る。
最後は血混じりの唾液と一緒に吐き出した。歯だ。大量の歯が教室の床に散らばる。拓海は笑った。歯茎だけの口で。
「ねぇ」
声が違う。拓海のものじゃない。高く悲しげな女子の声だ。
「モモ、見つけてよ」
ゆらりと動く。
「モモ」
背伸びしてなるべく遠ざかろうとしたが、ぐいと顔が近づいてきた。
息がかかる。血の臭いがする。顔をそむけたが、両手で挟まれて固定された。身動きひとつできない。拓海は血だらけの体を密着させてきた。熱い体温。腹のあたりが湿り、じわりと広がって下腹部から太ももへと血液が沁みていく。
「わたしを見つけて。ずっと待ってるから」
「だ、誰だよ」
目を閉じ、口もなるべく閉ざしたままで声を絞り出した。
すう、と頬をなでる感触。ぞわりとして身をすくめたくなるが、顔と体を押さえる力が強すぎて動けない。
「ねえ、待ってるから。見つけて」
「誰だ」
「わたしだよ、モモ。わたし」
頬を挟む手の力がさらに強くなる。このまま顔を潰されるんじゃないかと思った。唇にべちゃりとした感触。キスしたんだとわかった。血の味がする。
「モモ。見つけて」
「誰だよ。名前をいえよ」
「知ってるでしょ。思い出して」
首を振ると、相手は傷ついた顔をする。
「思い出して。わたしだよ。待ってる」
「どこで」
「ここで」
相手は目を合わせて訴える。
「ここにいる。この街に。見つけて、モモ」
「……わかった」
気味悪さしかなかったが、彼女から解放されたくて話を合わせた。
「この街にいるんだな。夢の中に」
「そう。ここにいる。この幻想街に」
「幻想街?」
「うん。
両腕で自分を抱きしめると、拓海の姿をした彼女は、体を震わせる。
「助けて、モモ。ここは暗くて誰もいない」
「ああ、助けに行く。でも、どこを探し――」
言い終わらないうちに、そいつは「ありがとう」と喜びを爆発させて破顔した。ぴゅーぴゅーと血の噴水を教室にバラまく。くるくると踊るように回る。拓海の顔がどろどろと崩れていく。その下から新たな顔が……。
「やっぱり、モモが大好き」
見えているものがすべて歪み始める。渦の中に引きずられていくようで。
「モモ」
その声は低音に響く。「モォーモォォ」と長く伸ばして呼んでいる。
「ワタシノコト、好キ、ト、イッタ、ヨ…ネ?」
視界が転じる。
音も何も、感覚のすべてがなくなり、真っ暗だ。やっと終わった、そう感じた。
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