「光洋、中野を頼む!」


 マキさんの叫び声が聞こえたと同時に、俺の後ろからだれかが現れた。

 そのだれかは、俺の眼前にまで伸びていた腕を取り、ひねり上げる。苦痛に顔を歪めているやつの背中で、掴んでいる手首にまた一段と力を入れ、完全に動きを封じる。

 そこへ、二人をわかつように突き出てくるバット。それもたやすくかわすと、俺の後ろから現れたもう一人のマキさんは、相手のみぞおちに的確に蹴りを入れ、のしていった。

 あまりの敏捷業に、男の一人が動きを止め、それにつられて全員が立ち止まる。


「市川……」

「お前ら性懲りもなく、また……。今度こそ、きちんとわからせてやる。だれが正しいか」


 光洋さんは、余裕の微笑みさえ蓄え、怯んでいる男たちへ向かっていった。

 慄きながらも、男たちは迎えうつ。

 俺を置いてきぼりにして、肉と肉とがぶつかり合う音が、辺りに影を落としていく。

 とはいえ、光洋さんとマキさんの動きには美しさも見える。角たちの野蛮なそれとは全く違った。相手を殴るという同じ行為なんだけど、重みや意味合いが違う。

 二人の絆をたしかめ合うようでもあり、だれかのためを思っての拳だ。

 そうして全員をのしたあと、意外なほど晴れやかな笑みを交わして、光洋さんとマキさんはハイタッチした。

 そこに言葉はいらない。野暮なんだ。

 ただ俺は、こっちへ歩み寄ってくる二人を、むすっとした顔で迎えた。


「ぜんぜん納得いかないんすけど」

「まあまあ。これまでのことは、改めて説明したうえで謝るからさ」


 そう言って、俺の肩を叩いた光洋さんは、ほっとしたように息をついた。あとからやってきたマキさんも穏やかな表情でいる。

 そこで、俺は悟った。

 マキさんは、むやみに風見館を拒否していたわけじゃなく、こうやって光洋さんに来てほしかったのかもしれない。光洋さんが手を伸ばしてくれたら、すぐにでも行こうと思っていたんじゃないか。

 ひとたび意地を張ったら、とことん貫き通すしかなかった。それを破って、光洋さんには来てほしかったのかもしれない。

 どのみち人騒がせには変わりはないけど。

 メイジに絵文字だらけのメールをして、奥芝さんの前ではガキみたいになる姿こそが、本当のマキさんなのかもしれない。


「中野」


 と、光洋さんが声をかけてきた。そして、点々と転がっている男たちに目をやった。


「こいつらを医務室に連れていって、そのあと、今後のことを真紀も交えてみんなで話し合おうと思う」


 光洋さんは、後ろのマキさんをちらっと見てから、「中野はどうする?」と訊いてきた。

 辺りは暗くなり始めている。それに気づいて、俺は腕時計を見た。

 そこで、維新と約束があったことを思い出した。

 光洋さんとマキさんに別れを告げ、俺は家路へ急いだ。その間にも、群青から黒へ、風景は色を変えていた。

 校舎へと続く道路から家の庭へと折れ、俺はチャリから降りた。今度は、ハンドルを引いて自分の足で進む。

 それに気づいて動く影が見えた。俺のほうへとゆっくり近づいてくる。

 声なんて出なかった。

 すでにいるとは思ってなかったし、なにを言っていいのかわからなくて、俺は立ち止まった。


「卓。どこに行ってたんだ」


 維新の顔には、薄いベールのような闇がかかっていて、よく見えない。それでも声には、怒りだけじゃなく、心配して待っていてくれた音もあった。


「ごめん。維新」

「いや、時間指定していたわけじゃないから、お前が謝る必要なんてないんだ。ただ……」

「うん、ごめん」


 堪えきれず、俺は自転車を離すと、維新の胸に顔をくっつけた。ちょっと汗の匂いもするシャツを掴んで、声を震わせた。


「ごめん、維新。……あのペンダント、なくしちゃった」


 背中で、維新の手を感じた。ただそっと置かれただけだったけど、すごくドキドキした。


「朝、風見館に行ったら、黒澤に没収されたんだ。アクセサリーは着けてちゃいけないんだって。もちろん、放課後、返してもらいにもう一度あいつのとこに行った。そうしたら、捨てたって言いやがって……」

「卓、顔を上げて」


 シャツに額をこすりつけるように首を横に振った。

 維新の手が肩にかかる。いささか強く掴まれた。

 虫の音と、心音が一際大きくなった。


「必死で探したんだけど、見つからなかった」

「卓」

「あのペンダント、離れ離れだった俺たちをつないでた大切なものだったのに」


 維新がさらに力を込め、俺の体を離した。


「卓。いいから顔を上げろって」

「維新……」


 俺はシャツを掴んだまま、維新の顔を見上げた。

 前からなにげなく見ていたものなのに、いまばかりは、どこに視線を置いたらいいかわからず、すぐに逸らしてしまった。

 長い指が俺のあごを捉える。ちょっと持ち上げられた。

 俺は逆らわないで、ただまつげをしばたたいていた。


「だったら、ペンダントよりもたしかなつながりをやるよ」


 そう言って、維新が顔を近づけてきた。

 唇が合わさった。ちょっと触れるだけで、それはすぐに離れた。

 次の瞬間、今度はしっかりとくっつく。上唇をはまれて、ついばまれて、足がガクガクした。

 だれかとキスすること自体が初めてだったから、引いて見てどきっとして、また受け身に変えて、心が震えた。

 維新は唇を離すと、その胸の中に俺を収めた。

 ようやく、なにもかもがはっきりしたような気がする。


「卓、ずっと好きだった」

「うん」

「あのとき空港で言うはずだったんだ」

「うん」

「その代わりのペンダントだったから、いまは、もうなくてもいいんだ」


 最後は、「うん」じゃなくて、維新をぎゅっとすることで返事をした。

 それから見上げた一番星。

 二人であの輝きを見られているいまが、なによりの宝物だと、俺は思った。



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