三
ただじっとして、俺はこの場を見守るしかできなかった。
「角(すみ)。そいつはこのあいだ来たばっかりの転入生で、今回の件にはまったく関係ねえ。いますぐその手を放せ」
「関係ねえ? おいおい、市川。ウソを吐くなよ。俺たちはちゃんと調査済みなんだ。こいつが、お前の後釜の打診を黒澤から受けていたことをな。そういう余計な芽はいまのうちにしっかりと摘んでおかねえと」
「角……」
俺を捕らえている男──角の挑発的な言葉に、光洋さんはさらに目つきを厳しくした。じりじりと前へ出る。
そのぶんを、俺を捕らえたままの角が後ずさる。
「市川、いいか。この無秩序な状態を作ったのは、お前なんだ。せっかくのシャングリラ、こんなチンケなやつに潰されてたまるか。幸い、お前の片割れは機能してないみたいだしな。ここにはもう独裁者なんていらねえんだよ」
光洋さんは大きく息を吐き、いからせていた肩を下げた。
「たしかにお前の言う通り、すべては俺の蒔いた種だ。だから俺を好きにすればいい。だけど、そいつは放せ」
「みっちゃん!」
「シゲ」
ずっと黙っていた奥芝さんが、見ていられないといった感じで横槍を入れた。
そんな奥芝さんを手で制し、光洋さんは角を見据えた。急に、その姿が俺から見えなくなった。
周りにいた男の一人が持っていた金属バットで光洋さんを殴り始めたのだ。
鈍い音が、廊下に響き渡る。
「市川。お前から受けた最大の屈辱は、最高の屈辱にして返してやるよ」
光洋さんが呻きながら廊下に倒れ込む。違う男が、その髪をむんずと掴み、苦しさに歪む光洋さんの顔を上に向かせた。
俺の頭上から、笑いの混じった荒い鼻息が聞こえた。
「悪いな、奥芝。みっちゃんとこいつは、俺たちでたっぷりと可愛がってやるからさ」
角の下卑た笑いに、いよいよ我慢ならなくなった俺は、眼下の手にかぶりついてやった。
低い悲鳴が上がり、体がようやく自由になる。俺はすぐさま、奥芝さんたちのいる方とは逆を走った。
廊下の突き当たりを曲がり、目に入ったガラス戸を開けて外に出る。靴下のまま土の上を行く。背の低い作物の畝をいくつか越えた。
男たちの叫び声が後ろから飛んでくる。
絶対に捕まるもんか。
足元が硬いコンクリートになった。あの前庭へ出たんだ。
真っ先に坂へ向かおうとしたら石を踏んでしまい足が止まった。振り返れば、男たちはすぐそこまでに迫っている。
──ダメだ。
諦めてその場へうずくまった俺の耳に、信じがたい声が飛び込んできた。
顔を上げると、頭に浮かんだ人物が坂のほうから走ってきていた。
「維新……」
維新は走りながら振りかぶる。
見慣れたスポーツバッグが後ろの男に命中して、コンクリートへ落ちた。
「卓」
維新に引っ張り上げられるようにして俺は立った。
その手が離れていく。
あとからやってきた男が、維新の後ろ襟を掴み、俺から引きはがしていった。
「維新!」
「いいから下がってろ」
維新は男の腕を掴みながら、俺に向こうへ行けと手を振った。
べつの男が維新の背中を蹴った。その衝撃でしなった体は、仰向けにコンクリートへ倒れた。
足が竦んで、動けない。
そんな俺を嘲笑うかのように、男は倒れた維新へ馬乗りになり、髪を掴むと顔面に拳を入れた。
俺はもうがむしゃらになって、男へ体当たりした。
隙が出たところで、維新はすかさず立ち上がり、男の胸倉を掴んで一発殴った。
その次の瞬間には、ほかの男が維新を羽交い締めにして、今度は金属バットで腹を叩き出した。
それを止めようとしたとき、辺りに口笛が響き渡った。
維新を殴っていた男たちは一斉に手を止め、畑のほうへと走り去った。
寮からも何人か出てきて、前かがみになりながら、どこかへ消えた。
俺は、しばし呆然となっていたけれど、コンクリートに崩れ落ちる維新に気づいて、慌てて駆け寄った。
「維新」
「い……っつ」
維新はコンクリートに手をつき肩を上下させ、空えずきを繰り返している。眉間にしわが寄っていてかなり苦しそうだ。
それが少しでも和らぐように、俺は優しく背中をさすった。
「ごめん。ごめん、維新」
どうしよう。
どうしよう。
俺のせいで──。
すると、維新の口から、血の混じった唾液がコンクリートへ垂れた。
「……い、維新っ。血。ち、ち、血……っ」
あまりの量に、俺の背中を寒気が這っていく。
卓、と聞こえた声に反応もできないくらい、一瞬にして目の前が真っ暗になった。
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