五
「今度、キッチンの見学にでも来て」
次郎さんはそう言って、ぼくらを見送ってくれた。
もともとだれかと先約があったらしく、午後から出かけるんだとも言っていた。
お店を出たあと、お兄ちゃんが先立って、ぼくの自転車のところへと歩いていく。その足には色の違うサンダル。それは、本当にお兄ちゃんが焦っていたことを物語っていた。
「オートバイは乗って帰らなくていいの」
「プールの帰りにでもまた寄る」
お兄ちゃんはぶっきらぼうに言うと、ぼくの自転車のハンドルを取った。スタンドを外して黙々と歩いていく。
アーケード街を抜けて大通りへ出たところで、ぼくはふと、小林先生の顔を思い浮かべた。同居人のパティシエさんが、じつは次郎さんであったことも頭に浮かべる。
「そういえばお兄ちゃんて、ゆうべ次郎さんの家に行ったんだよね? つまりは小林先生の家ってことでしょ」
「ああ」
「先生と次郎さんは同じ部屋に住んでるんだよね。それってどういうことなのかな?」
「どういうことって、そのまんまのことだろ。でも次郎は、店の二階が住まいってことになってるらしい。それで、小林さんのアパートではルームシェア的なことをしてるんだと」
「ふうん。先生と次郎さんて、ほんと仲のいい友だちなんだね」
「人夢!」
そのとき、お兄ちゃんの体の向こうからだれかの声が飛んできた。
「あ、勇気くん」
ぼくは、こんなところで会えるとは思ってもいなくて、嬉しさのあまり大きく手を振った。
お兄ちゃんを見やれば、あからさまな不愉快を顔に描いていた。
ぼくは手を引っ込める。
勇気くんの姿が近くなった。
「どうも」
「ああ……」
頭を下げた勇気くんにお兄ちゃんは素っ気なく返して、再び歩き出した。
後ろ髪を引かれる思いがした。
しかし、勇気くんに呼び止められ、ぼくはその場にとどまった。
「さっき、部活のトレーニングでそこら辺をランニングしてたとき、人夢の姿を見かけたんだ。 慌ててたみたいだったけど、なんかあったのか」
「ごめんね、勇気くん」
ぼくは手を合わせると、深く腰を折った。
「え?」
「詳しいことは夕方に電話するから。いまはここで。本当にごめんね」
「あ、ああ。うん」
なにか言いたそうにしていたけど、勇気くんはすぐ笑顔になってくれて、またなと手を振った。
最後にもう一度謝って、ぼくはお兄ちゃんを追いかけた。すっかり遠くなった背中へ、ありったけの声をぶつける。
そのときの驚きようといったらなかった。お兄ちゃんは肩を弾けさせ、ぴたっと立ち止まる。
それから見えた表情──。
泣き笑いのような、その顔を、ぼくは一生忘れられない気がした。
篠原兄弟物語 もりひろ @morishimahiroi
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