「今度、キッチンの見学にでも来て」


 次郎さんはそう言って、ぼくらを見送ってくれた。

 もともとだれかと先約があったらしく、午後から出かけるんだとも言っていた。

 お店を出たあと、お兄ちゃんが先立って、ぼくの自転車のところへと歩いていく。その足には色の違うサンダル。それは、本当にお兄ちゃんが焦っていたことを物語っていた。


「オートバイは乗って帰らなくていいの」

「プールの帰りにでもまた寄る」


 お兄ちゃんはぶっきらぼうに言うと、ぼくの自転車のハンドルを取った。スタンドを外して黙々と歩いていく。

 アーケード街を抜けて大通りへ出たところで、ぼくはふと、小林先生の顔を思い浮かべた。同居人のパティシエさんが、じつは次郎さんであったことも頭に浮かべる。


「そういえばお兄ちゃんて、ゆうべ次郎さんの家に行ったんだよね? つまりは小林先生の家ってことでしょ」

「ああ」

「先生と次郎さんは同じ部屋に住んでるんだよね。それってどういうことなのかな?」

「どういうことって、そのまんまのことだろ。でも次郎は、店の二階が住まいってことになってるらしい。それで、小林さんのアパートではルームシェア的なことをしてるんだと」

「ふうん。先生と次郎さんて、ほんと仲のいい友だちなんだね」

「人夢!」


 そのとき、お兄ちゃんの体の向こうからだれかの声が飛んできた。


「あ、勇気くん」


 ぼくは、こんなところで会えるとは思ってもいなくて、嬉しさのあまり大きく手を振った。

 お兄ちゃんを見やれば、あからさまな不愉快を顔に描いていた。

 ぼくは手を引っ込める。

 勇気くんの姿が近くなった。


「どうも」

「ああ……」


 頭を下げた勇気くんにお兄ちゃんは素っ気なく返して、再び歩き出した。

 後ろ髪を引かれる思いがした。

 しかし、勇気くんに呼び止められ、ぼくはその場にとどまった。


「さっき、部活のトレーニングでそこら辺をランニングしてたとき、人夢の姿を見かけたんだ。 慌ててたみたいだったけど、なんかあったのか」

「ごめんね、勇気くん」


 ぼくは手を合わせると、深く腰を折った。


「え?」

「詳しいことは夕方に電話するから。いまはここで。本当にごめんね」

「あ、ああ。うん」


 なにか言いたそうにしていたけど、勇気くんはすぐ笑顔になってくれて、またなと手を振った。

 最後にもう一度謝って、ぼくはお兄ちゃんを追いかけた。すっかり遠くなった背中へ、ありったけの声をぶつける。

 そのときの驚きようといったらなかった。お兄ちゃんは肩を弾けさせ、ぴたっと立ち止まる。

 それから見えた表情──。

 泣き笑いのような、その顔を、ぼくは一生忘れられない気がした。



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篠原兄弟物語 もりひろ @morishimahiroi

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