三
ソファーへ戻ると、お父さんとの思い出を次郎さんは話してくれた。
出会いのきっかけはやっぱり、お父さんの働いていたレストランでバイトをしたことだった。
自分もパティシエを目指したいと篠原のお義父さんに告げたけど、許してもらえなかった。だから家を出て、その後はお父さんのお世話になった。
行田のおじいちゃんとおばあちゃんの家に居候させてもらって、息子みたいによくしてもらった。だから恩返しもしたかった。養子の件は自分から切り出した。
改めて淹れたコーヒーを飲んで、最後にそう言うと、次郎さんはおもむろにソファーを立ち上がった。そばのラックから紙の束を出し、ぼくの前へ置いた。
「マイディアサン」
表紙の真ん中にはそんなタイトルがあった。
「これは?」
「歩さんは、いつか自分の店を出したいと思っていた。その夢を僕によく語ってくれてたんだ。だけど、なかなかレストラン側が離してくれなくて……」
お父さんが自分のお店を持ちたいと思っていたなんて、ぼくは知らなかった。レストランのパティシエ長をずっとやっていくんだと思っていた。
クリップでまとめてあるだけの束の一枚をめくってみる。次の紙には、ケーキ屋さんの内装についてことこまかに書かれてあった。
どこかで目にしたレイアウト。ショーケースの場所も、焼き菓子コーナーの雰囲気も、まるでこのケーキ屋さんにそっくりだ。
「もしかしてこれって……」
「歩さんの夢の計画表。それを譲り受けたとき、この夢はいつか実現させなきゃいけないと、僕は思った。それも『行田』として。もちろん、むかしお世話になった行田のお父さんやお母さんの面倒を、歩さんの代わりに見たいと思ったのもある。いろんな意味で、歩さんの無念を晴らしたかった。安心させたかったんだ」
ページをめくるたび、お父さんが描いていた素敵な夢があふれ出てくる。
ぼくは涙が止まらなくなった。
ケーキのレシピのページになった。ぼくの大好きなものばかりだ。焼き菓子や、パイやタルトやムースもある。フルーツがたくさん乗ったプリンアラモードも。
「お父さん……」
ぼくの涙はどのページにも落ちた。字がにじんでしまったところもあって、次郎さんに謝りながら紙をめくった。
「じつは、その計画表は、きみのお母さんが僕にくれたものなんだ」
「……お母さんが?」
「だから、必ずしも周りに反対されてばかりの僕じゃない。きみのお母さんは、いまもちゃんと歩さんのことを思っているし、きみのこともすごく心配している。それだけは絶対に忘れてほしくないんだ」
「うん」
ぼくは、お父さんの大事な計画書のすべてを目に焼き付け、胸の中へと写した。表紙を上に戻し、次郎さんのほうへと滑らせる。
「ゆうべ、豪にも説明しておいたから安心して。あいつもきみのことを心配していたよ」
ぼくは勢いよく顔を上げた。
「そうだ。ぼく、お兄ちゃんを捜していたんだ……」
「豪を?」
「うん。ここにはいないみたいだけど……次郎さんの家にいるの?」
いや、と言いかけて、次郎さんは腕を組んだ。ソファーにもたれかかる。
「朝、豪には会わなかったの?」
ぼくは目をしばたたいた。会わないもなにも、お兄ちゃんはゆうべ家を出て行ったまま帰ってきていないんだ。
それを次郎さんに言おうと思ったら、ドアから大声が飛んできた。
ぼくは反射的にソファーを立ち上がった。
次郎さんも立ち上がり、ドアへと向かう。開いたらすぐ、低く叫ぶような声が飛び込んできた。
「次郎! なあ、人夢来てんだろ」
「上にいる」
階段を駆け上がるスリッパの音が聞こえたかと思うと、お兄ちゃんが勢いよく姿を現した。その顔には怒りの色がくっきりと表れていた。
お兄ちゃんがそうなる心当たりをぼくはたくさん知っている。
お兄ちゃんも心配してたって次郎さんは言ったけど、実際は違うだろうというのもわかっている。
ぼくは本当の兄弟じゃない。本当の兄弟である次郎さんのほうがお兄ちゃんには大切なはずだから。
……だから、怒鳴られるのも、殴られるのも覚悟はできている 。
ぼくは身を固くした。どんな言葉が飛んできてもいいように目をつむって身構えた。
「人夢、お前……」
ぼくへと近寄ってきたお兄ちゃんはなぜか弱々しい声を出した。この頭に手を添え、体をくっつけてくる。
ぼくは、お兄ちゃんの部屋の匂いがする服に向かって、しばらくまばたきを繰り返していた。
「お兄ちゃん?」
「朝起きたら俺の朝メシはねえし──」
「ちょ、ちょっと待って」
ぼくは腕を突っ張り、その厚い胸から顔を上げた。
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