だけど、なにも返ってこない。

 目を恐る恐る上げてみた。先生の同居人さんという男の人は、ソファーに深くもたれていて、じっとコーヒーカップを見ていた。

 呟くような声が聞こえる。


「覚(さとる)さんや兄貴の言ったとおりだ。黙ってるなんて無理だったんだ」


 視線が重なる。

 聞こえてきた言葉の意味がわからなくて、ぼくはきょとんとなった。

 少し表情を柔らかくした男の人がおもむろに眼鏡を外した。


「そっか。これが邪魔だったね」


 ぼくは言葉を失った。

 眼鏡一つでこうも変われるんだと改めて気づかされた。

 いまぼくの目の前にいる小林先生の同居人さんは、このあいだお父さんのお墓で会った人だった。


「次郎……さん?」

「うん」


 ぼくは、しばし次郎さんをまじまじと見て、ゆっくりと視線を落とした。

 ……ということは、このお店はやっぱり次郎さんのだったんだ。次郎さんはパティシエになったんだ。

 ジローちゃんだったんだ。お父さんの古い友だちで、むかしよくうちに来ていた──。

 それにしても、あの女の人が言った「篠原さんという人は働いていない」とは一体どういうことなのだろうか。

 とても感じのいい人だったから、ウソを言ったとは思えない。

 目を伏せたままぼくは首をひねった。


「人夢くん、大丈夫?」

「あ、あの。下で、ここで働いているという女の人に会って、その人に次郎さんのことを訊いたんですけど、篠原さんという人はお店にはいないと言われたんです。それって……」


 次郎さんは、テーブルの上にあったカードケースから一枚の名刺を出し、ぼくの前に置いた。

 一番に目に入ったのは、そこに書かれてある名前。名刺を思わず手にして、すぐに次郎さんの顔を見た。


「行田……」

「うん」


 ぼくと目を合わせ、次郎さんは優しく微笑んだ。


「僕は行田さんのところへ養子に入ったんだ」

「……」

「だから、いまは篠原次郎という名前じゃなくて、行田次郎というんだ」


 ぼくはただ愕然としていた。

 もしかしたら、お兄さんたちが口にしていた「次郎さんの本当」とは、勘当されたことでも、密かにパティシエになったことでもなく、これを意味していたんじゃないのだろうか。


「人夢くんにはまだ言わないって約束だったんだけど──」


 次郎さんは前かがみになると頭を抱えた。


「あの日、歩(あゆむ)さんのお墓できみの姿を見かけたとき、声をかけずにはいられなかった」

「ぼくに教えない約束っ……って。もしかして」

「すべては、きみを悲しませたくないという親心なんだ。お父さんのことで、せっかく立ち直り始めたのに、僕が現れたりしたらまた悲しむんじゃないかって」

「お母さんが……?」


 次郎さんは立ち上がり、明確な返事は濁していた。


「それなら、次郎さんが、お兄ちゃんにも本当のことを言えなかったのは、あの家に帰って来なかったのは……ぼくのせい? ぼくがいたからなの?」


 それなのにぼくは、お兄ちゃんに知ったふうなことを言って、あの夜は引き止めもした。説教じみたことまでした。


「ぼくのせい──」

「それは違うよ、人夢くん」


 ぼくは名刺を握りしめた。


「僕はあの家へ帰らないんじゃない。帰るところがもう違うからなんだ。悪いのは、黙って家を出た上に、勝手に篠原を捨てた僕なんだ」


 ぼくは手を開いて、もう一度名刺を見た。

 次郎さんがどうして養子に入ろうと思ったのか、その詳しいいきさつはいまのところわからない。だけど、お父さんのためにそうしたんだろうことはわかった。理解できた。

 ぼくは腰を上げ、突っ立ったままでいる次郎さんへと歩み寄った。


「お父さんのためなんだよね」

「……」

「お父さんは一人っ子だったから、おじいちゃんとおばあちゃんのためにも行田を継いでくれたんだよね」


 次郎さんが頷く。

 その二の腕を両手で掴んで、ぼくは額をくっつけた。


「ぼく、次郎さんのことも知りたいけど、お父さんの友だちのジローちゃんのことも知りたい。ジローちゃんしか知らないお父さんのことや、ジローちゃんもきっと悲しんでくれたあのときのことも全部聞きたい」


 次郎さんを見上げたら、わかったと言うように頭を撫でられた。

 その感覚は、まるでお父さんにしてもらってるみたいで、ぼくは嬉しかった。

 次郎さんが行田の家に入ったということは、血はつながっていないけれど、お父さんの『弟』になったということだ。

 お兄ちゃんとぼくとおんなじなんだ。



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