マイディアサン
一
ぼくは思わずオートバイへ駆け寄った。
大きさといい、色といい、見覚えのあるキズといい、お兄ちゃんのものに間違いなかった。
「お兄ちゃん、やっぱり──」
ここへ来ていたんだ。
いや、ここへ来たのは間違いない。問題は、そのあとなんだ。
でも、オートバイがここにあるなら、まだお店の中にいるかもしれない。
ぼくは振り返り、お店の裏口へ視線をやってから顔を上げた。二階があることを示す窓が見える。
ぼくは裏口の前に立ってゆっくりとノブを回した。
「関係者以外立ち入り禁止」
とあるドアの文字は、この際見なかったことにする。
入り口の泥落としに靴をすり、仄暗い建物内へ踏み入る。目を配りながら、一応、おじゃましますとぼくは声をかけた。後ろ手でドアを閉める。
入ってすぐの壁にカードホルダーがかかっていた。それらをさす機械もとなりにある。
その横のドアには「更衣室」というプレートがついていて、通路を挟んで向かいのドアには「キッチン」のプレートがあった。
通路の先に階段がある。
そこを上がるにはスリッパじゃないとダメみたいで、下駄箱もあった。
大きなスニーカーがしまわれている。残念ながらお兄ちゃんのものじゃなかったけれど。
ぼくは階段を見上げ、思い切って声をかけてみた。
しかし、応答はなかった。
お店の駐車場にオートバイがあったということは、ゆうべお兄ちゃんがここへ来たのは間違いない。だれかと会った可能性だってある。
その人はもしかしたら、お兄ちゃんがいまどこにいるのか知っているかもしれない。
ぼくはスリッパに履き替えて階段を上がった。
上りきった廊下の左右にドアがある。
何度か迷った末に右のドアを開けたら、いま上がってきたばかりの階段下から声が飛んできた。
「おい、いるのか?」
怒鳴っているようにも聞こえた声にびっくりして、ぼくは隠れるつもりで部屋の中へ入った。ばたんとドアを閉める。それが結構な音だった気がして、ノブを掴んだまま肩をすくめた。
それにしてもさっきの声……。どこかで聞いたことのあるような──。
「そうだ」
小林先生に似ている。
いまの声を頭の中でリピートしようとして、ぼくはあることを思い出した。
……そうだ、そうだ。
そういえば、小林先生と一緒に住んでいる人はパティシエさんだった。このお店は、その同居人さんのものだという可能性もある。
なるほどと思って手を叩いたら、それに重なるように目の前のドアが開いた。
ぼくは息を呑んだ。現れた男の人は、小林先生と同じく眼鏡をかけていたけど、見たことのない人だった。
寝癖とはいかないまでも茶色の髪は乱れていて、眉間にしわを寄せてぼくを見下ろしている。
しかもくわえタバコだ。お兄ちゃんと同じくらい背丈もあるから、迫力がすごい。
だからぼくは、怒鳴られないうちにと頭を下げた。
「勝手に入ってきてすみません」
「篠原」
小林先生が顔を覗かせた。きつめの口調でぼくの目の前の人のくわえタバコを注意して、体を挟めた。
やっぱり、あれは小林先生の声だったんだ。
「篠原。どうしてここに?」
「……ええと、先生のほうこそ」
「ああ。ほら、いまのヤツさ」
すでにもう一つのドアへと姿を消したさっきの人を先生は指さした。
「先生の同居人さんですか? パティシエだという」
「ああ、まあな」
「女の方じゃなかったんですね。ぼくてっきり──」
「……」
「あの方に少し訊きたいことがあるんです」
小林先生は目を丸くした。なにか信じられないことでも聞いたかのように瞠目している。
ぼくは不安になった。
勝手に上がり込んできた上に訊きたいことがあるなんて図々しかっただろうか。
「すみません。なんか……」
「いや」
小林先生は首を横に振ると、ぼくの背中を押した。向かいの部屋へと促す。
給湯スペースで、さっきの男の人がコーヒーをドリップしていた。
「この子にココアでも」
すれ違いざまに先生は言った。
それに軽く頷いて、男の人はようやく口からタバコを外した。シンクの上の灰皿へともみ消している。
「篠原。ここに座るといい」
ぼくは言われた通り、黒い革張りのソファーへ腰を下ろして、先生の同居人さんの背中を見つめた。
どんな人なのかとちょっと気になっていたけど、まさか男の人で、こんなふうに出会うなんて思ってもみなかった。
「じゃあ、あとはよろしく。くれぐれもうちの生徒の前で煙草を吸わないように」
先生は、同居人さんの背中を叩くと、部屋を出ていってしまった。
コーヒーが注がれた大きめのカップと、ココアの淹れられたカップが、そっとテーブルに置かれた。
「あの、ほんとにすみませんでした。勝手に上がってきてしまって……」
向かいのソファーにどかっと座った男の人へ、ぼくはもう一度頭を下げた。
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