四
なんとなく、お兄ちゃんは帰ってこない気がした。そして、ぼくのその予感は的中する。
顔を見るまでは寝れないと一清さんに訴えたけど、取り合ってもらえなかった。
ベッドへ入っても、ずっと表に意識を向けていた。
あしたの朝、顔を合わせたらなんて話しかけよう。なんて言おう。そのことも考えているうちに、ぼくはいつの間にか眠ってしまった。次に目を覚ましたときには、外はすっかり明るくなっていた。
台所へ入れば、きのうと打って変わって殺風景な食卓がある。階段も廊下も玄関も、しんとしている。
きょうは日曜だから、広美さんは仕事のはずだ。一清さんは釣りに出かけているのかもしれない。
ぼくは流し台にもたれ、サイドボードから出した食パンをかじった。
お兄ちゃんがきのう置いていった最後の言葉がよぎる。
あのとき、もっとちゃんとなにか言えたら、こんなふうにはならずにすんで、きょうもいつもと同じ朝を迎えられたのかもしれない。
ぼくが……。ぼくだからこそ、ちゃんと……。
このままずっと帰ってこないなんてあるわけがないと思いながらも、そのまさかを想像して、ぼくは泣きそうになった。
前は独りでも平気だった食事の時間。いまはだれかしらいないと落ち着かない。
篠原さんちではよくある兄弟ゲンカで、いまさらぼくの出る幕はないのかもしれないけど、これだけは声を大にして言いたい。
広美さんは仕事だから仕方ないにしても、一清さんは平然とどこかへ出かけてしまっている。それがとても悲しい。一清さんがこんなにも薄情な人だとは思ってもみなかった。
急いでパンを食べ終え、ぼくは自分の部屋へ戻った。早々に着替えると洗面所へ行き、また自室へ帰って、財布をカバンに突っ込んだ。
次郎さんのところにお兄ちゃんはいる気がする。まだ会いに行ってなかったと思うから。
ぼくには普段と変わらないお兄ちゃんに見えていても、胸の中ではいろいろと葛藤していたのかもしれない。
会いたい。……けれど、黙ってパティシエの道へいった理由がわからないうちは会いたくない。
そう、お兄ちゃんは思っていたんだ。
ぼくはいても立ってもいられなくなった。
家を出て一目散で向かったガレージには、お兄さんたちの車は一台もなく、お兄ちゃんのオートバイももちろんなかった。
自転車を走らせ、いつもの角を曲がろうとしたとき、後ろから声が飛んできた。我が家の前に一台の車が停まっていて、パワーウィンドウから善之さんが顔を出していた。
自転車から降りることなく、お兄ちゃんを捜しに行ってくると、ぼくは大きな声を返した。
公園の脇を通り、大通りへと出る。しばらく道なりに走って、最寄りの横断歩道を越えればいよいよアーケード街だ。
とてつもなく緊張してきた。それでも引き返すことは考えない。
しかし、アーケード街の中ほどを過ぎた辺りから雲行きが怪しくなり、次郎さんのお店を前にして、ぼくは茫然となった。自転車から降り、店先で立ち尽くす。
朝も早いからシャッターの下りているところがほとんどで、人通りも夕方のそれではない。向かいの本屋さんも静かだ。
次郎さんのお店もシャッターが下がっていて、しかも貼り紙までしてあった。
「誠に勝手ながら、本日は臨時休業とさせていただきます」
思わずため息がこぼれた。
どうしようかときょろきょろしていたら、どこかのドアが開け閉めされる音が聞こえた。
自転車のスタンドを下ろす。
音を辿ってケーキ屋さんの角を曲がれば、前に次郎さんを見かけた裏口が目に入った。そこから離れつつある女の人の後ろ姿もある。その人は、お店の裏に設けられている駐車場へ入った。
お客さんはいないはずだから、いまあそこに車を停めるのは従業員さんだけだ。
ぼくは駆け足で近づいていって、運転席のドアを開けたその女の人を呼び止めた。
「あの、すみません」
二十代後半くらいのきれいな人だった。髪は短く、メイクもそんなに派手派手しくない。初対面であるぼくを見る目も柔らかい。
「いきなりこんなことを訊くのも失礼かもしれませんが、そこのケーキ屋さんで働いている方ですか?」
「ええ。そうよ」
せっかく開けた運転席のドアを閉め、こっちへ向き直ってもくれる。
「なにかしら」
「臨時休業の貼り紙を見たんです。あの、どうしてきょうはお休みなんですか?」
少しだけではあるけど、さすがに女の人の顔色は曇る。
ぼくはもう一度、「すみません」と言葉を入れた。
「店長の都合がちょっとね」
「……その店長さん、もしかして篠原さんという方ですか?」
店長さんの都合でお店を開けられないなら、その人がパティシエという可能性もある。次郎さんかもしれない。
だから、その女の人は首を縦に振るだろうとぼくは思っていた。
「違うわね」
「……え?」
「うちの店長は篠原さんじゃないわよ」
「でも、篠原さんて方は働いてますよね」
しかし、なんのためらいもなく、その人は首を横に振る。
「そういう名前の人はいないわ」
ぼくは言葉に詰まるしかなかった。
……次郎さんは、あのケーキ屋さんで働いてない?
とにかくわけがわからなかった。頭を抱えて、ぼくはアスファルトへ視線を落とす。
捜しにきたはずのお兄ちゃんの背中や、次郎さんの存在が一気に遠ざかっていった気がした。
なんとか頭の整理をしようとしているうちに、ぼくは重要なことに気がついた。
次郎さんがいまなにをしているかは、あくまでぼくの想像でしかなく、あの夜、お兄ちゃんにもそう言った。ケーキ屋さんの裏口で見かけたり、お父さんの古い友人だと聞かされたりしたけれど、あのお店でケーキを作っているところを実際に見たわけじゃない。
それなのにぼくは、次郎さんはここにいると、勝手に思い込んでいた。
「お兄ちゃん……」
あのお店に次郎さんはいないと知って、どんなに落胆しただろう。
きっとお兄ちゃんは、デタラメを言ったぼくに怒って帰ってこなかったんだ。
本当に勇み足だったことにがっくりきていると、車のドアが閉まる音が聞こえた。ぼくがお礼を言う間もなく、その女の人は車を走らせていった。
それにも残念な気持ちでいっぱいで、この場をあとにしようとしたとき、いまの車の陰になって見えていなかった一台のオートバイをみとめた。
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