三
紛れもなくお兄ちゃんが帰ってきた音だった。
一清さんが廊下のほうへと声を張り上げる。
ぼくの脇を通って、お兄ちゃんはゆっくりと台所へ入ってきた。この不穏な空気に気づくと、食卓の椅子へカバンを投げ、「は?」という顔をした。腰を上げた広美さんを見て、ぼくにも視線を向ける。
「……んだよ。そんなに遅くなってねえだろ」
「お前、これに見覚えはないか」
「あ?」
一清さんがビールの缶を食卓に置いた。
すると、お兄ちゃんは鋭くぼくを見て、派手な舌打ちをした。
「まじかよ……」
「やっぱりお前か。どういうことだ。説明しろ」
「べつに、そんなガミガミ言うほどのことじゃねえだろ。兄貴だって、高校んときは親父に隠れて飲んでたんじゃねえの」
一清さんの言葉を強い口調で一蹴し、お兄ちゃんは冷蔵庫を開けた。頭をガシガシ掻きながらポカリのペットボトルを出す。
これから起こりそうなことにぼくはびくついて、後ろへ少し下がった。敷居を跨ぎ、一歩廊下へと出る。
「たしかに、お前が『飲んだ、飲んでない』はいまさらな問題だ」
「そうだろ?」
「だが、このビールの缶は人夢の部屋から出てきた。それは見逃すことのできない大きな問題だ」
「……」
「まさかとは思うが、お前が隠せと言ったわけじゃないだろうな」
思いも寄らない一清さんの言葉に、ぼくは落としていた視線をぐいと上げた。
さっきよりも中へ入って、食器棚の前に立つ。
「一清さん。それは絶対に違う」
「人夢」
ペットボトルを流し台に置いたお兄ちゃんがぼくを制する。
「そうだよ。俺が隠せっつった。……これで満足か」
「お兄ちゃん」
「つうかさあ。そんなくだらねえことを咎める前に、俺に話すべきことがあんじゃねえの」
お兄ちゃんがぼくの前へずいと出る。
一清さんとの距離が一気に縮まってハラハラした。
「なんのことだ?」
「ぶさけんな。次郎はまだフランスにいるとかデタラメ言いやがって。本当はもう日本にいるんだろ。すぐそこにいるんだろうが。そんなに俺に会わせたくないのかよ」
ぼくはお兄ちゃんの陰になっていて、一清さんと広美さんがどういう表情をしているのかわからない。
どうするべきかオロオロと首を振っていたら、お兄ちゃんの握り拳が見えた。かすかだけど震えてもいる。
いまにもその拳が一清さんのところへ飛んでいきそうで、お兄ちゃんの襟足と手元を、ぼくは交互に見た。
「前々からおかしいと思ってた。親父のラーメン屋を継ぐっつってた次郎が、なんでフランスに行ったのかって。パティシエとかいうのをやるためなんだろ。でもさ、なんでそんな大事なこと、俺に黙ってんだよ。それが納得いかねえ」
「……」
「俺だって兄弟じゃんかよ……」
お兄ちゃんの頭がわずかに下を向いた。
「なあ、広美。お前までなんで黙ってたんだよ。俺より兄貴のほうがそんなに大切か」
「やめろ、豪。そんなガキみたいなことを言うのは」
「ああ? ガキ扱いしてんのはそっちだろ! 自分たちのことは棚に上げて、俺にばっかりなんだかんだ言う。大事なことは一切言わねえくせにさ。人をコケにしやがって……!」
「いい加減にしろ。豪」
一清さんはあくまで冷静沈着に、しかし頭を押さえつけんばかりにも聞こえる低い声だった。
お兄ちゃんの腕に筋が浮き上がる。体も前へいこうとしていたところをぼくは引き止めた。シャツを掴み、もう片方の手は胴へ巻きつける。
「お兄ちゃん、だめだよ!」
「うるせえな、放せ」
お兄ちゃんは簡単にぼくの手を剥がすと、一言だけ吐き捨てて台所を出ていった。
「お前も結局は兄貴の味方なんだろ」
ぼくはしばらくその場から動けなかった。
玄関の戸が乱暴に閉められた音でようやく我に返る。
でも、遅かった。
サンダルを突っかけて外へ出たら、ガレージから発せられたオートバイの爆音が目の前を横切っていった。
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