紛れもなくお兄ちゃんが帰ってきた音だった。

 一清さんが廊下のほうへと声を張り上げる。

 ぼくの脇を通って、お兄ちゃんはゆっくりと台所へ入ってきた。この不穏な空気に気づくと、食卓の椅子へカバンを投げ、「は?」という顔をした。腰を上げた広美さんを見て、ぼくにも視線を向ける。


「……んだよ。そんなに遅くなってねえだろ」

「お前、これに見覚えはないか」

「あ?」


 一清さんがビールの缶を食卓に置いた。

 すると、お兄ちゃんは鋭くぼくを見て、派手な舌打ちをした。


「まじかよ……」

「やっぱりお前か。どういうことだ。説明しろ」

「べつに、そんなガミガミ言うほどのことじゃねえだろ。兄貴だって、高校んときは親父に隠れて飲んでたんじゃねえの」


 一清さんの言葉を強い口調で一蹴し、お兄ちゃんは冷蔵庫を開けた。頭をガシガシ掻きながらポカリのペットボトルを出す。

 これから起こりそうなことにぼくはびくついて、後ろへ少し下がった。敷居を跨ぎ、一歩廊下へと出る。


「たしかに、お前が『飲んだ、飲んでない』はいまさらな問題だ」

「そうだろ?」

「だが、このビールの缶は人夢の部屋から出てきた。それは見逃すことのできない大きな問題だ」

「……」

「まさかとは思うが、お前が隠せと言ったわけじゃないだろうな」


 思いも寄らない一清さんの言葉に、ぼくは落としていた視線をぐいと上げた。

 さっきよりも中へ入って、食器棚の前に立つ。


「一清さん。それは絶対に違う」

「人夢」


 ペットボトルを流し台に置いたお兄ちゃんがぼくを制する。


「そうだよ。俺が隠せっつった。……これで満足か」

「お兄ちゃん」

「つうかさあ。そんなくだらねえことを咎める前に、俺に話すべきことがあんじゃねえの」


 お兄ちゃんがぼくの前へずいと出る。

 一清さんとの距離が一気に縮まってハラハラした。


「なんのことだ?」

「ぶさけんな。次郎はまだフランスにいるとかデタラメ言いやがって。本当はもう日本にいるんだろ。すぐそこにいるんだろうが。そんなに俺に会わせたくないのかよ」


 ぼくはお兄ちゃんの陰になっていて、一清さんと広美さんがどういう表情をしているのかわからない。

 どうするべきかオロオロと首を振っていたら、お兄ちゃんの握り拳が見えた。かすかだけど震えてもいる。

 いまにもその拳が一清さんのところへ飛んでいきそうで、お兄ちゃんの襟足と手元を、ぼくは交互に見た。


「前々からおかしいと思ってた。親父のラーメン屋を継ぐっつってた次郎が、なんでフランスに行ったのかって。パティシエとかいうのをやるためなんだろ。でもさ、なんでそんな大事なこと、俺に黙ってんだよ。それが納得いかねえ」

「……」

「俺だって兄弟じゃんかよ……」


 お兄ちゃんの頭がわずかに下を向いた。


「なあ、広美。お前までなんで黙ってたんだよ。俺より兄貴のほうがそんなに大切か」

「やめろ、豪。そんなガキみたいなことを言うのは」

「ああ? ガキ扱いしてんのはそっちだろ! 自分たちのことは棚に上げて、俺にばっかりなんだかんだ言う。大事なことは一切言わねえくせにさ。人をコケにしやがって……!」

「いい加減にしろ。豪」


 一清さんはあくまで冷静沈着に、しかし頭を押さえつけんばかりにも聞こえる低い声だった。

 お兄ちゃんの腕に筋が浮き上がる。体も前へいこうとしていたところをぼくは引き止めた。シャツを掴み、もう片方の手は胴へ巻きつける。


「お兄ちゃん、だめだよ!」

「うるせえな、放せ」


 お兄ちゃんは簡単にぼくの手を剥がすと、一言だけ吐き捨てて台所を出ていった。


「お前も結局は兄貴の味方なんだろ」


 ぼくはしばらくその場から動けなかった。

 玄関の戸が乱暴に閉められた音でようやく我に返る。

 でも、遅かった。

 サンダルを突っかけて外へ出たら、ガレージから発せられたオートバイの爆音が目の前を横切っていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る