二
次の日は朝寝坊をしてしまった。ぼくは慌てて台所の戸を開ける。
すると、休日の朝にしては珍しく、全員が食卓に揃っていた。
「おはよう」とみんなに声をかけられ、ぼくも挨拶を返したとき、すっかり忘れていたあれを思い出した。
思わず高い声が出た。
お兄さんたちは食事に夢中になっていて、ぼくの声に気づいている様子はない。
そこに、お兄ちゃんが「ごちそうさま」と立ち上がる。流しへ食器を置いて、こっちを見ることなく台所を出ていく。
ほくはすぐさま追いかけて洗面所へ入った。もう歯磨きを始めていたお兄ちゃんが鏡越しに訝しげな視線を飛ばした。
「なに?」
「お兄ちゃん、あの缶どうしよう」
「──あの缶?」
「お兄ちゃんがゆうべ飲んでたビールの缶。ぼく、自分の部屋ヘ持ってっちゃったんだ」
お兄ちゃんが手を止めた。
その横にぼくは立って、曇っていく一方の顔を見上げた。
「一清さんがいきなり帰ってきて……。それでどうしたらいいのかわからなくなって……」
下唇を突き出し、ぼくは縋るように目線を送る。
しかしお兄ちゃんは、歯磨きを再開させて鏡のほうへ顔を戻すと、頭をガシガシと掻いた。
「んなこと知るかよ。いいから適当に捨てとけ」
虫の居所がすごく悪いみたいだった。
ぼくは仕方なく、すごすごと洗面所をあとにした。……ことの発端を作ったのはお兄ちゃんなのに。
いっそ一清さんにチクってやろうかとも思った。
けど、缶を隠してしまった時点でぼくも共犯とみなされそう。そのことで一清さんに叱られ、チクったことをお兄ちゃんにどやされる。ぼくが一番ひどい目に遭うのは明らかだった。
それならば、お兄さんたちがいないときを見計らってあの缶を捨てるしかない。
そのことを頭に描きながらぼくは朝ご飯に手をつけた。
だけど、こういうときに限ってお兄さんたちはみんなお休みで、遊びに行ったりだとか、出かける気配もない。姿は見えなくても、この家にいる以上、なまじっか行動には移せない。
自分の部屋で缶を握りしめ、その機会をうかがいながらぼくは終日を過ごすこととなった。
一清さんと広美さんが協同して作った豪華なディナーを食べ終えたあと、帰りの遅いお兄ちゃんの代わりにロクちゃんの散歩へと出かける。いつものコースをいつものペースで回った。
その締めくくりには、遠くから勇気くんちの灯りを眺める。
夏休み後半で恒例となっていた夜のプチデートは、二学期に入ってしまったら、なんとなく終わっていた。勇気くんは部活で忙しい身だし、もともとあのときだけのものと思っていたから、さみしくもなんともない。
立ち止まり、灯りからも目を離せなかったぼくを、ロクちゃんが急かす。
家へ着いて、小屋にロクちゃんを戻すと、ぼくは玄関の戸を開けた。ただいまと声をかけたけど、とくになにも返ってこなかったから、下にはだれもいないものと思っていた。
納戸に寄ってから台所へ入る。
そこでぼくは軽い悲鳴を上げた。一清さんと広美さんが向かい合う形で食卓にいて、その二人のあいだにはあれがあった。
善之さんの姿は見えない。夜のバイトへ行ったのかもしれなかった。
「人夢。ちょっと話がある」
中へ入れず、廊下にも戻れず、敷居のところで棒立ちとなっていたぼくに一清さんが近づいてきた。
その手にはビールの缶がある。ぼくを一日中悩ませていたあれ。
押入れに隠していたのがバレてしまったというのは、勝手に部屋へ入られたことを意味しているけど、それを問いつめる権利なんかあるはずもなかった。
「これがどういうことかわかるよな」
一清さんの声も表情もとても厳しかった。まともに顔を上げられない。
ぼくは視線を落として床を見つめていた。
そこに入ってきた広美さんの顔。長い髪を掻き上げながらしゃがみ、ぼくを覗き込んだ。
「人夢。べつにお前を疑ってるわけじゃないんだ。正直に話してくれるだろ?」
そのまなざしが、本当に優しく促す感じだったから、ぼくはちょっと安心できた。
「あの、ごめんなさい……」
「豪なんだろ? たまに隠れて飲んでたみたいだし」
「隠してて、ほんとごめんなさい」
「俺も兄貴もただ、人夢の部屋にあれがあったいきさつを知りたいんだ」
広美さんはもっと表情を柔らかくして、ぼくが話しやすいようにしてくれる。
だけど、朝のお兄ちゃんの不機嫌さを思い出すと、なかなか口には出せなかった。
発端はたしかにお兄ちゃんだ。でも、部屋へ缶を持っていってことを掻き回し、こんなふうな大事にしてしまったのはぼくだ。
「まあいい。あとは本人に訊く」
ため息混じりに一清さんは言った。
ぼくが顔を上げたとき、玄関の戸が勢いよく開かれる音がした。
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