「あのアパートは狭くて不便でめちゃくちゃひどいところだったけど、一人になると、ときどき懐かしく思う。みんな一緒に寝たりだとかさ。あんなにわずらわしかったのに……」


 最後は呟くように言う。

 その語調は、ぼくの心臓を鷲掴みにするほど弱々しかった。

 お兄ちゃんはきっと、いますぐにでも次郎さんに会いたいんだ。それは、できることならお父さんにもう一度会いたいこの気持ちと同じで、けれどお兄ちゃんには望みがあるのだから、ぼくはかなえてあげたいと思った。


「……ぼく、次郎さんに会ったよ」


 外れていた視線が合わさる。ぼくをしばらく見つめてから、お兄ちゃんは口を開いた。


「……次郎に会った?」

「うん」

「どこで」

「お父さんのお墓。ほら、ぼく一人で掃除しに行ったじゃない。そのとき、その写真の人と会ったんだ」


 ちらりとぼくが目をやると、お兄ちゃんも写真を見やった。


「次郎さんは、ぼくのお父さんと知り合いで、あの日お参りに来てくれてた。むかし、ぼくとも会ったことがあるみたいなんだけど、ぼくのほうはよく覚えてなくて……。ほら、あれ。あの二つずつあったお供え物」

「まさか次郎が?」

「うん」


 まだ半信半疑だという顔でお兄ちゃんは激しく頭を掻いた。


「だったら、やっぱフランスの話は嘘っぱちか」

「ううん。フランスには本当に行ったんだとぼくは思う」

「あ?」


 お兄ちゃんは手を止め、鋭い目つきでぼくを見る。


「なんでお前にわかる」

「ぼくのお父さん、パティシエなんだ。そのお父さんも若いころ、パティシエの勉強のためにフランスに留学してた」

「……」

「ぼく見たんだ。駅前のアーケード街にできたケーキ屋さんの裏口へ、次郎さんが入っていくの──」


 ぼくはいきなり強い力で肩を掴まれ先の言葉も摘まれた。


「てことはなにか。次郎はお前の親父さんと同じ道を歩んで、パティシエになったって言いたいのか?」


 ぼくが頷くと、お兄ちゃんは勢いよく立ち上がって、居間を出ていってしまった。

 胸がちょっと痛んだ。

 お兄ちゃんは、次郎さんはお義父さんを継ぐものと思っていたから、自分の知らないところで、しかもべつの道を行っていたのがショックだったんだ。

 勇み足だったかもしれないと少なからず後悔した。でも遅かれ早かれ、いずれ知ることになるんだし、どんな職業に就いていても、それは次郎さんの自由だ。

 二階へと消えたはずの足音がまた響く。いつにない早足が、雪見障子を鳴らしていく。

 それを追ってぼくが廊下へ出てみると、上がりがまちに大きな背中があった。

 いやな予感がした。

 ほくは一目散に駆け寄る。

 スニーカーを突っかけたお兄ちゃんは、きちんとTシャツを着て、下はよそ行きデニムだ。どこかに行こうとしているのは一目瞭然だった。


「お兄ちゃん、どこ行くの」

「お前が言ったその店へ行くんだよ。次郎が本当にいるのか確かめてくる」


 ぼくは裸足のまま玄関の戸の前に立って、手を伸ばした。

 ぼくが次郎さんの話をしたのは、会おうと思えばいますぐにでも会えるんだよと、お兄ちゃんに教えたかったからだ。てっきり喜んでくれると思ったんだ。

 なのに、目の前の顔は鬼のよう。肩もいからせている。そんな状態で会いに行ったって、よくないことが起こるに決まっている。


「あのね、ぼくの話はあくまで、ぼくの想像でしかないんだ」

「だからそれを確かめに行くっつってんだろうが。──どけ」


 お兄ちゃんの胸にぼくは手をついて腕を突っ張った。ぶんぶんと首を横に振る。


「待って。お願い」

「だって、あいつは俺に言ったんだ。親父の跡継いで、親父と一緒に店でっかくするんだって。……俺ともやろうって」


 お兄ちゃんは片手で、ぼくの両手をまとめて掴んだ。力任せに握って、ぼくの胸のほうに押しつける。


「約束したのに……。そう約束したのに、俺になにも言わずに破るなんて、あり得ねえんだよ……」


 ぼくはただうなだれていた。

 鬼の形相を歪ませ、いまにも涙を溢れさせてしまいそうなお兄ちゃんを、これ以上見ていられなかった。

 なぜ、一清さんは次郎さんのことをお兄ちゃんにごまかし続けたのか。それもいま知った。

 次郎さんの「本当のこと」をお兄ちゃんに知られたくなかったからじゃない。タイミングをしっかり計った上で話さないと、こんなふうにお兄ちゃんが逆上するとわかっていたからだ。

 すべては一清さんの優しさだったんだ。

 完全にぼくのせいだと脱力していたら、お兄ちゃんもいくぶん落ち着いたのか、握力を緩めた。

 おずおずと見上げれば、まず目に入った口が動く。


「つうか、なにがパティシエだよ。ふざけんな」


 そこから吐き捨てられた言葉──。


「え?」

「親父も俺も、次郎にパティシエなんか望んじゃいねえ」


 お兄ちゃんがぼくの手首を握り直した。緩んだあとの反動からくる痛さと、言葉の衝撃に、ぼくは愕然となった。

 お兄ちゃんやお義父さんが、次郎さんの将来にどれだけ期待して、楽しみにしていたのか、ぼくには計り知れない。

 ただ、一つだけどうしても譲れないのは、パティシエだって立派な仕事だということ。ぼくの大切なお父さんが生涯を捧げてきた仕事だ。

 立場は違っても、片親を亡くした者同士。そういうお兄ちゃんだからこそ、お父さんの存在をも否定するようなことは口にしてほしくなかった。


「パティシエだって立派な仕事じゃん。ぼくのお父さんが誇りを持って頑張っていた仕事なんだよ。お兄ちゃんには関係ないことかもしれないけど、そんなふうに言うの……ひどいよ!」


 ぼくは声を尖らせた。

 それでなにかに目覚めたようにお兄ちゃんは目を見開いていた。


「違う」

「ひどいよ……お兄ちゃん」

「人夢、違う。マジで悪い。親父さんのことを言ったわけじゃねえんだ。俺はただ──」


 お兄ちゃんはぼくの手首を放して頭を抱えた。

 いつになくうろたえているように見えて、ぼくは慌てて宥めた。


「うん、わかってる。お兄ちゃんはお父さんのことを悪く言うつもりじゃなかったって」


 次郎さんを思ってこその言葉だったって。


「でもね。次郎さんの人生は次郎さんのものなんだ。お義父さんにもお兄ちゃんにも、それを決めつける権利はないんだよ」

「そんなことは俺だってわかってる。お前に言われなくたって、ちゃんとわかってる……」


 お兄ちゃんはぼくに背を向け、スニーカーを脱いだ。


「少し頭を冷やしたいから」


 そう残し、廊下の奥へと消える。

 ぼくはもはや、その背中にかける言葉もなく、玄関で立ち尽くすしかほかなかった。




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