三
ぼくは公園を出て家路を急いだ。
玄関への石段を上がる前にガレージを確認する。
善之さんのフィールダーは奥にあったけど、一清さんのヴェルファイアと広美さんのBMWはまだなかった。
ほっと胸を撫で下ろす。
玄関の戸を開けるとき、お風呂場の灯りがついているのに気がついた。靴を脱いで確認すると、お兄ちゃんが入浴中だった。
善之さんの姿は台所にも居間にもなかった。冷蔵庫のおかずが減っていたから、ご飯は食べたんだろうと思う。たぶん二階にいるのかな。
自室から読みかけの小説を持ってきて、ぼくは居間の座卓についた。こうして、いつものように一清さんたちの帰りを待つことにした。
やがて、お風呂場からお兄ちゃんが出てきて、障子戸の向こうを通っていった。ぼくに声をかけることなく、二階へと上がっていく。
足音が完全になくなったのを確認して、小説へ視線を戻した。
しばし静かなときが流れる。
すると、だれかが階段を下りてきた。となりの和室の障子戸が開かれ、お兄ちゃんが姿を現した。上半身はまだ裸で、頭にはタオルがかかっていた。
「これ」
お兄ちゃんは鴨居をくぐると、ぼくになにかを差し出した。
「次郎の写真」
「え?」
いきなりのことで、ぼくはどうしていいかわからず、それを受け取れないでいた。
写真を座卓に置いて、お兄ちゃんは台所へと消える。
ちらっと写真に目をやると、見覚えのある顔が写っていた。お父さんのお墓で会った人だ。となりにいるお兄ちゃんが幼いから、ずいぶん前に撮られたものだと思う。
次郎さんはいまと変わらず、きれいな顔立ちをしていた。
次郎さんは、やっぱりジローちゃんだった。
「うちは家族で写真とかあんま撮らねえから、次郎が写ってるやつはそれしかねえんだけど」
ポカリとコップを持ってお兄ちゃんが戻ってきた。座卓の前にあぐらをかくと、タオルでガシガシと頭を拭いた。
ぼくはお礼を言って、お兄ちゃんに写真を返す。
そのときだった。アーケード街のケーキ屋さんで見た横顔をふっと思い出した。
あの人も……次郎さんだ。
「きょう行った店……。たぶん、お前は聞かされてねえと思うけど、その近くにアパートがあってさ。俺たち、前はそこに住んでたんだ。いまはもう取り壊された安いボロアパート」
お兄ちゃんはそこまで言うと、ポカリをついだ。
でも、口はつけない。ただコップを見つめていた。
「次郎は高校に進学しねえで、すぐに専門学校へ行ったんだ。その学校近くのレストランでアルバイトしてた。俺が小二くらいんときにこっちへ越してきて、でも次郎は、学校もバイト先も遠くなるからって、こっちには来なかった」
「レストラン──」
次郎さんは霊園でぼくと会ったとき、自分はお父さんの古い友人だと言った。
もしかすると、アルバイトをしていたそのレストランは、お父さんが働いていたところかもしれない。
お兄ちゃんの話だと、次郎さんはお義父さんのお店を継ぐことになっている。
しかし、実際はアーケード街のケーキ屋さんだ。
きっと、お父さんと出会って、自分もパティシエの道を行こうと決めたんだ。それで、お義父さんによく思われていない。期待を裏切ったわけだから。
……そうなると、勇気くんの言っていた「勘当」もあながち間違ってないのかもしれない。
「お兄ちゃんは、それ以来次郎さんと会ってないの?」
「いや」
お兄ちゃんは頭に被せていたタオルを外して首もとにかけた。それで小鼻を拭く。
「次郎の新しいアパートに何回か行ったこともあるし、一緒にメシ食ったこともある。ただ、あいつも忙しかったみたいで、一年に二、三回ぐらいしか会えなかった。もっと会いたいって、兄貴に言ったけど、次郎は忙しいからダメなんだって返された。なんでこっちに帰って来ねえんだって訊いたときも、同じことを言ってた」
「フランスへ行くっていうの、次郎さんがお兄ちゃんに言ったんだよね?」
「次郎から直接聞いたわけじゃねえ。ちょこちょこあった電話もこなくなって、それを善之に話してたら、あいつがもらしたんだ。次郎はフランスに行ったんだって。最初は旅行だと思ってた。でも、どうやら違うらしい。まあ、いまとなっちゃあ、そのフランスの話も本当かどうかわかんねえけど。とにかく、兄貴たちはなにか隠してる。それだけはたしかだ」
噛みしめるように言って、生乾きの髪を掻き毟る。
ちゃんとお兄ちゃんは気づいていたんだ。なんにも感じていないように見せて、一清さんたちの変化をしっかりと捉えていたんだ。
「いま思えば、俺がお母さんを知らなくても平気だったのは、チビんときの俺のそばにずっと次郎がいたからなんだ」
「……」
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