「じつは、俺もなにも知らねえんだ。……お前の親父さんのこと」


 唐突に切り出された。言おうとしていることがわからなかったぼくは、わずかに首を傾げる。

 そのとき、天井から、バラバラとこまかい音が降ってきた。


「……にわか雨ってやつか?」


 お兄ちゃんが腰を上げる。

 雨音は激しくなるばかりで、ぼくも立ち上がった。


「さっきはあんなに晴れてたのに……」

「やべえ、バイク!」


 お兄ちゃんは叫ぶように言って、お店の裏口へと走った。

 ぼくは、カウンターに置ておいた雑巾を手にして追う。ドアを開ければ、そこは別世界だった。

 まさしくバケツをひっくり返したような降りだ。地面からの跳ね返りで、足元はけぶっている。

 そんな中、お兄ちゃんは、いい加減な位置に停めてきたオートバイを、お店のひさしの下へと避難させていた。


「マジですげー雨!」


 全身びしょ濡れで戻ってきたお兄ちゃんは、ぼくが差し出した雑巾を取ると、頭に巻いていたタオルを外し、まずは髪を拭いた。


「つうか、おま。雑巾じゃねえか!」

「しょうがないじゃん。もうタオルないし」

「どうりで固ぇと思ったら……」

「使ってないのだから、大丈夫」


 まだなにかを言おうとしたみたいだけど、ぼくと雑巾を交互に見て、お兄ちゃんは無言でズボンを拭き始めた。


「全部びしょびしょだね……」

「そのうち乾くだろ」

「えー……そうかな」

「じゃなかったら、気合いだ、気合い。水泳で鍛えられた精神力で、びしょびしょの服も気にしねえ!」


 そんな、わけのわからないことを言って、お兄ちゃんは笑い飛ばした。

 でも、ぼくは知っている。そういう人ほど、すぐに風邪を引くんだ。

 思わずため息をこぼして、いくぶん雨音が控えめになった天井を、ぼくは見やった。


「もう少ししたら、さすがにやむよね」

「さあ」

「やまなかったら帰りどうするの」


 お兄ちゃんは、ひとしきり服を拭いたあと、さっきまで読んでいたマンガ雑誌を一冊手にした。カウンター席に座って、どこかを指さす。


「そこに休憩室があるから、二人で泊まってくか」

「え~、やだ」


 もしかしたら、冗談のつもりだったのかもしれない。

 だけどぼくは、万が一そうなったら勇気くんに会えなくなると思って、本気で返していた。

 たちまち、お兄ちゃんの機嫌は悪くなる。


「あ?」

「だ、だってほら、寝る場所はあるだろうけど、食料がなにもないじゃん」

「んなこと、お前に言われなくてもわかってるよ」


 吐き捨てるように言って、また雑誌へ目をやる。

 ぼくは、その脇に立った。


「ね、ねえ。さっき言ってたことなんだけど」

「あ?」

「ぼくのお父さんのことはなにも知らないって……どういう意味?」


 一呼吸置いてから、お兄ちゃんは雑誌を閉じた。カウンターに肘をついて、おもむろにぼくを見上げる。


「どういう意味もなにも、お前が、兄貴たちから次郎のことを聞かされてなかったように、俺も、お前の親父さんのことは、なにも聞かされてないってこと。まあ、事故でってのは、なんとなく聞いてたけど」

「……」

「それ以上は、兄貴たちも話してくれなかったから、あまり触れちゃいけねえんだと思ってさ」


 ぼくは、いままで生きてきた中で最悪なあの日を思い出し、目を伏せた。

 危うく涙が出てきそうになって、必死で堪えているところに、ものすごい音が落ちてきた。天上や壁が、バリバリいって震える。それが床へも伝わっていく。

 ぼくは悲鳴を上げた。


「ぎゃあ!」


 雷だった。雨が一段落していたから、思いっきり油断していた。そういえば、これの心配もしなきゃいけないんだった。

 次のに備えて、耳を塞ぐ。

 その場でうずくまる。

 お店が何度もビリビリいって、足元を突き上げてくるような感覚もあった。

 電気が落ちる。

 さらなる恐怖で、どうにかなりそうだったとき、ぼくの頭を撫でるなにかがあった。

 えっと思い、ほくは目を上げた。でも、その気配は、薄闇の向こうへすぐに消えた。




「おー。見事に晴れたな。さっきの雨がうそみてえ」

「うん……」


 お兄ちゃんの言う通り、お店の外は、すでに穏やかな空気を取り戻していた。

 でも、この心は一向に晴れない。一生住める穴があったら、ずっともぐっていたい。


「いつまでそんなとこに突っ立ってんだよ。ほら」


 ぼくは、裏口のドアから動けず、ただ俯いていた。

 バイクのハンドルを取っていたお兄ちゃんが戻ってきて、早く被れと、この胸にヘルメットを押しつける。

 ぼくは、お兄ちゃんの顔を窺ってから、ヘルメットを取った。ずっと上がりっぱなしの口角がすべてを物語っている。とても楽しげに、お兄ちゃんは声を弾ませた。


「なに、お前。もしかしてヘコんでんの?」

「……」

「まあ、たしかに? 中学にもなったヤローが、あのぐらいのことで泣き叫ぶなんて、若干ヒいたけど」


 叫びはしたけど泣いてなんかいない。ぼくはもごもごと、口の中で反論した。このヘルメットを投げつけて、「一人で帰る!」と怒鳴りつけられたらよかった。

 でも、お兄ちゃんがいたから助かった部分もある。

 くつくつと笑う低い声がする。お兄ちゃんは肩を震わせ、裏口のドアに鍵をかけた。

 ぼくは下唇を噛んだ。「ありがとう」と「超ムカつく」とのジレンマを、ヘルメットとともに抱える。


「人夢!」


 ぼくの気持ちを知る由もないお兄ちゃんは、オートバイに跨ると、自分の後ろを指した。

 すごすごとそこへくっついて、ぼくはヘルメットを被る。情けなくも、その背中に、またしがみつくことになるのだ。

 ささやかな抵抗として、お兄ちゃんの体へ回した腕を絞る。それが功を奏したのか、定かではないけれど、帰り道の景色はやけにゆっくりと過ぎていった。




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