四
「じつは、俺もなにも知らねえんだ。……お前の親父さんのこと」
唐突に切り出された。言おうとしていることがわからなかったぼくは、わずかに首を傾げる。
そのとき、天井から、バラバラとこまかい音が降ってきた。
「……にわか雨ってやつか?」
お兄ちゃんが腰を上げる。
雨音は激しくなるばかりで、ぼくも立ち上がった。
「さっきはあんなに晴れてたのに……」
「やべえ、バイク!」
お兄ちゃんは叫ぶように言って、お店の裏口へと走った。
ぼくは、カウンターに置ておいた雑巾を手にして追う。ドアを開ければ、そこは別世界だった。
まさしくバケツをひっくり返したような降りだ。地面からの跳ね返りで、足元はけぶっている。
そんな中、お兄ちゃんは、いい加減な位置に停めてきたオートバイを、お店のひさしの下へと避難させていた。
「マジですげー雨!」
全身びしょ濡れで戻ってきたお兄ちゃんは、ぼくが差し出した雑巾を取ると、頭に巻いていたタオルを外し、まずは髪を拭いた。
「つうか、おま。雑巾じゃねえか!」
「しょうがないじゃん。もうタオルないし」
「どうりで固ぇと思ったら……」
「使ってないのだから、大丈夫」
まだなにかを言おうとしたみたいだけど、ぼくと雑巾を交互に見て、お兄ちゃんは無言でズボンを拭き始めた。
「全部びしょびしょだね……」
「そのうち乾くだろ」
「えー……そうかな」
「じゃなかったら、気合いだ、気合い。水泳で鍛えられた精神力で、びしょびしょの服も気にしねえ!」
そんな、わけのわからないことを言って、お兄ちゃんは笑い飛ばした。
でも、ぼくは知っている。そういう人ほど、すぐに風邪を引くんだ。
思わずため息をこぼして、いくぶん雨音が控えめになった天井を、ぼくは見やった。
「もう少ししたら、さすがにやむよね」
「さあ」
「やまなかったら帰りどうするの」
お兄ちゃんは、ひとしきり服を拭いたあと、さっきまで読んでいたマンガ雑誌を一冊手にした。カウンター席に座って、どこかを指さす。
「そこに休憩室があるから、二人で泊まってくか」
「え~、やだ」
もしかしたら、冗談のつもりだったのかもしれない。
だけどぼくは、万が一そうなったら勇気くんに会えなくなると思って、本気で返していた。
たちまち、お兄ちゃんの機嫌は悪くなる。
「あ?」
「だ、だってほら、寝る場所はあるだろうけど、食料がなにもないじゃん」
「んなこと、お前に言われなくてもわかってるよ」
吐き捨てるように言って、また雑誌へ目をやる。
ぼくは、その脇に立った。
「ね、ねえ。さっき言ってたことなんだけど」
「あ?」
「ぼくのお父さんのことはなにも知らないって……どういう意味?」
一呼吸置いてから、お兄ちゃんは雑誌を閉じた。カウンターに肘をついて、おもむろにぼくを見上げる。
「どういう意味もなにも、お前が、兄貴たちから次郎のことを聞かされてなかったように、俺も、お前の親父さんのことは、なにも聞かされてないってこと。まあ、事故でってのは、なんとなく聞いてたけど」
「……」
「それ以上は、兄貴たちも話してくれなかったから、あまり触れちゃいけねえんだと思ってさ」
ぼくは、いままで生きてきた中で最悪なあの日を思い出し、目を伏せた。
危うく涙が出てきそうになって、必死で堪えているところに、ものすごい音が落ちてきた。天上や壁が、バリバリいって震える。それが床へも伝わっていく。
ぼくは悲鳴を上げた。
「ぎゃあ!」
雷だった。雨が一段落していたから、思いっきり油断していた。そういえば、これの心配もしなきゃいけないんだった。
次のに備えて、耳を塞ぐ。
その場でうずくまる。
お店が何度もビリビリいって、足元を突き上げてくるような感覚もあった。
電気が落ちる。
さらなる恐怖で、どうにかなりそうだったとき、ぼくの頭を撫でるなにかがあった。
えっと思い、ほくは目を上げた。でも、その気配は、薄闇の向こうへすぐに消えた。
「おー。見事に晴れたな。さっきの雨がうそみてえ」
「うん……」
お兄ちゃんの言う通り、お店の外は、すでに穏やかな空気を取り戻していた。
でも、この心は一向に晴れない。一生住める穴があったら、ずっともぐっていたい。
「いつまでそんなとこに突っ立ってんだよ。ほら」
ぼくは、裏口のドアから動けず、ただ俯いていた。
バイクのハンドルを取っていたお兄ちゃんが戻ってきて、早く被れと、この胸にヘルメットを押しつける。
ぼくは、お兄ちゃんの顔を窺ってから、ヘルメットを取った。ずっと上がりっぱなしの口角がすべてを物語っている。とても楽しげに、お兄ちゃんは声を弾ませた。
「なに、お前。もしかしてヘコんでんの?」
「……」
「まあ、たしかに? 中学にもなったヤローが、あのぐらいのことで泣き叫ぶなんて、若干ヒいたけど」
叫びはしたけど泣いてなんかいない。ぼくはもごもごと、口の中で反論した。このヘルメットを投げつけて、「一人で帰る!」と怒鳴りつけられたらよかった。
でも、お兄ちゃんがいたから助かった部分もある。
くつくつと笑う低い声がする。お兄ちゃんは肩を震わせ、裏口のドアに鍵をかけた。
ぼくは下唇を噛んだ。「ありがとう」と「超ムカつく」とのジレンマを、ヘルメットとともに抱える。
「人夢!」
ぼくの気持ちを知る由もないお兄ちゃんは、オートバイに跨ると、自分の後ろを指した。
すごすごとそこへくっついて、ぼくはヘルメットを被る。情けなくも、その背中に、またしがみつくことになるのだ。
ささやかな抵抗として、お兄ちゃんの体へ回した腕を絞る。それが功を奏したのか、定かではないけれど、帰り道の景色はやけにゆっくりと過ぎていった。
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