三
「人夢、行くぞ」
「え……ちょ、ちょっと待って」
とりあえずぼくだけでも伊藤さんに挨拶をして、おばあちゃんちをあとにする。
「……いまの態度、絶対によくないよ」
「あ? なにが」
「伊藤さんのこと。もしかしてケンカしてるの? そんなんだと、また美保さんに怒られるよ」
お兄ちゃんがぴたりと立ち止まった。
ぼくも思わず足を止める。
お兄ちゃんは首だけを動かし、横に並んだぼくを見下ろした。
「なんで、そこに美保が出てくんだよ。あいつは関係ねえだろ」
「だって伊藤さんは──」
ぼくが幽霊と見間違えてしまった、お兄ちゃんの幼なじみで、健ちゃんのいとこの人。だから美保さんは、あのときスーパーで、お兄ちゃんにあんなことを言っていた。
……と、てっきりぼくは思っていた。
「なんかよくわからないよ。……美保さんが関係ないってことは、伊藤さんて、健ちゃんのいとこじゃないの?」
「いや、あいつらは、たしかにいとこ同士だけど、そうじゃなくて。俺と大志のケンカに、美保はもともと関係ねえってハナシだよ。つうか、そもそもケンカなんかしてねえし」
「じゃあ──」
どうしてあんな態度をとったの?
つい、口をついて出てきそうになったものを慌てて呑みこんだ。
ケンカしてないと、お兄ちゃんが言うなら、ぼくが掘り下げる必要はない。
「それよりお前さ。あいつとなに喋ってたんだ。あいつ、なんか余計なこと言ってたんじゃねえの」
「え?」
「祭りのこととかさ」
「……祭り? 花火の日の?」
お兄ちゃんをちらりと見上げた。しかし、これといった返答はない。
「というか、そんなに伊藤さんと話できなかったんだよ。お兄ちゃん、すぐに戻ってきたから」
その瞬間、見た目にわかるくらい、お兄ちゃんの顔がほっとなった。
ぼくは一抹の不安を覚えた。その「祭りのこと」を突っ込んで訊いてみようと思ったけど、機嫌を損ねるのも目に見えている。
そうしてためらっているうちに、また歩き出したお兄ちゃんの背中は遠くなっていた。
涼しくなった頃合いを見て、ぼくは早速、店内にあったほうきでフロアを掃いたり、カウンターやテーブルをきれいに拭いたりした。
一清さんたちが交代で掃除をしているものの、しょっちゅうは来れないと思うから、結構あちこちにホコリが溜まっている。
次に、カウンターの向こうの調理場に取りかかる。ガス台やシンクを丁寧に拭いた。
ふと、テーブル席のほうへ目をやれば、お兄ちゃんが休んでいる。エアコンの風がよく当たる特等席だ。そのテーブルには、古いマンガ雑誌が積まれてあった。
「サボる気満々じゃん」
「違ぇよ。ちょっとした息抜きだっつーの」
とか言いつつ、その目の前にある雑誌は、ちょっとやそっとじゃ読みきれない量だ。
でも、こうなるんじゃないかと頭のどこかで予想していた。お兄ちゃんの「手」はあてにせず、ぼくは掃除を再開させた。
お店の入り口には、開かずのシャッターがかかっていて、電気を点けないと作業ができない。最初に入ってきたときは、サウナのように蒸し暑かった。エアコンのおかげで、いまはだいぶ涼しくなったけれど、動きっぱなしだとやっぱり暑い。
ぼくは、首にかけていたタオルで汗を拭きながら、黙々と調理場をピカピカにした。
お義父さんのお店は、おばあちゃんちから歩いて五分くらいのところにある小さな商店街の一角にあった。
駐車場も、店舗も、じつにこじんまりとしている。
一方で、店内は、メニューの張り紙がたくさんあって、活気で溢れていたことを教えてくれている。
お義父さんが作るラーメンは、むかしからここら辺で愛されていた味だ。それを全国区にしようと、東京にお店を出したのだ。
「なあ、人夢」
しゃがみ込み、シンク下の収納棚を掃除していると、いきなりお兄ちゃんの声がした。
びっくりして、ぼくはしりもちをついてしまった。そのとなりにしゃがんだお兄ちゃんは、思い詰めたような顔をしている。
「な、なに? ……どうしたの?」
「……」
いままでにないくらいの真剣なまなざしだった。
そんなふうに見つめられたら、おいそれとそらせない。ぼくは次の言葉を待ちつつ、お兄ちゃんの瞳に釘づけになっていた。
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