ふたりぼっち
一
「あとで、ちょっと俺につき合え」
きょうのお昼ご飯はお兄ちゃんの大好きな焼きそばを作ってあげよう。
そう思って台所に立つとすぐ、お兄ちゃんがプールから帰ってきた。そして、ぼくの顔を見るや、ヤブから棒に言ったのだ。
「え? つき合えって、どこに?」
ぼくは、野菜を刻んでいた手を止めた。
外から帰ってきたら、まず冷蔵庫を覗く。そんな、きょうもお決まりパターンのお兄ちゃんを見上げる。
「兄貴がさ──」
言いかけて、急に台所を出ていってしまった。
なにがなんだかよくわからない。
首を傾げながら、再び野菜を刻んでいると、どしどしとお兄ちゃんが戻ってきた。
「これ」
と手にしてきたのは、お中元ののしがかかったお使いもの。
お兄ちゃんが食卓に置くときに重そうな音がしたから、中身はインスタントコーヒーかビールだと思う。
「ばあちゃんちへ持っていってくれって」
「川淵の?」
「そう。んで、そのついでに店を掃除してこいって」
「店……」
「一人でイケんだろって兄貴は言うんだけど、なんていうか、一人じゃつまんねえし。だから、お前もつき合え。どうせヒマだろ?」
ヒマだろと言われたら頷くしかないけれど、ぼくには一つわからないことがある。
「いま、お兄ちゃんが言ったお店って、どこのこと?」
「は? なに、お前。兄貴たちから店のこと聞いてねえのか?」
「うん」
お兄ちゃんは、ぼくと視線をつなげて、なんとも言えない険しい顔をした。でも、すぐにそっぽを向いて、また冷蔵庫を開けた。
「親父の店」
「え?」
「東京に行くまでラーメン屋やってた、親父の店だよ」
空手で冷蔵庫を閉め、そこに背をもたせかけ、お兄ちゃんは続ける。
「親父の店は、ばあちゃんちの近くにあって、兄貴たちがときどき交代で掃除しに行ってんだ」
ぼくは、そんなこと、ぜんぜん知らなかった。
一清さんたちも水くさい。言ってくれれば、夏休みのあいだだけでも、ぼくが代わりに行ったのに。
「お義父さん、お店畳んだんじゃなかったんだ」
「そりゃあ、そうだろ」
なに言ってんだ、とつけ加えて、お兄ちゃんは鼻で笑う。
ぼくは、東京にお店を出したお義父さんは、こっちにはもう帰ってこないと思っていた。お母さんも、そんなふうなことを言っていたし。だから、ここに残ろうとぼくは決めたんだ。
お店も引き払ったとばかり思っていた。
「ねえ、お兄ちゃん。お義父さん、東京のほうが落ち着いたら、またこっちでラーメン屋さんやるの?」
「さあ? やんねえんじゃね?」
「でも……」
会話の辻褄が合わない。
ぼくが首をひねって見上げれば、やれやれという感じで、お兄ちゃんは言った。
「次郎がやんだろ」
「え?」
「あの店、次郎が継ぐってことになってんだよ」
「ええっ?」
思いのほか大きな声が出てしまって、ぼくは慌てて口を塞いだ。
「お前さ、さすがに次郎のことは聞いてるだろ」
口に手を当てたまま、首を横に振る。
「なにも?」
今度は縦に振った。ゆっくりと手を外し、恐る恐るお兄ちゃんに訊いてみる。
「お兄ちゃんこそ。……次郎さんの本当のこと、一清さんから聞いてないの?」
「はあ? つうか、本当のことってなんだよ」
お兄ちゃんはいきなり凄みを利かせてきた。それがめちゃくちゃ恐い。
しかし、肝心なその先がわからないぼくに、「本当のこと」の答えが出るわけもなく、思いっきり言葉に詰まってしまった。
やっぱり、うかつに余計なことを言ってはいけない。
「もしかして、次郎は本当はフランスに行ってねえってことか?」
「え?」
「やっぱりな。なんか、おかしいと思ってたんだよ! だってさ、ラーメン屋継ぐのに、なんでフランスに留学すんだ、ってハナシだろ?」
かなりまずいことになった。ぼくの余計な一言で、お兄ちゃんは熱くなり始めている。
そもそもぼくは、次郎さんのことをなに一つ知らなかったんだ。
そんな会話を、さっきしたばかりなのに、鼻息を荒くしすぎたお兄ちゃんは、それすらの判断もつかなくなっていた。
「あ、ねえ、お兄ちゃん。善之さんが大学へ行く前に、お兄ちゃんのこと言ってたよ? なんかすごく怒ってたみたい」
口から出任せだったけど、幸いにも、お兄ちゃんには心当たりがあったらしく、しまったという表情をして台所を出ていった。
ぼくは胸を撫で下ろした。そして、口はわざわいのもとだと、固く心に言い聞かせた。
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