きっと、善之さんがいまのバイトをすると言ったとき、一清さんは反対したんだと思う。

 ママさんを始め、ホステスさんたちもいい人ばかりで、この辺では有名な人気のあるお店であったとしても、職種が職種なだけにキケンも多い。それでも、ああして働いているということは、善之さんを一人の大人として認めていて、きちんと信じているって証拠なんだ。


「ぼく、ロクちゃんの散歩行ってくるね」


 納戸から綱とポーチを取って、台所の一清さんへ声をかける。

 暗黙の了解じゃないけど、お兄ちゃんの「遅くなる」には、ロクちゃんの散歩をぼくに任すという意味もあるのだ。


「時間も遅いから、きょうは行かなくていい」


 玄関へ行こうとしたら、一清さんに呼び止められた。


「でも、ロクちゃん、さっきからそわそわしてて」


 まだ八時だから大丈夫。

 と残して、ぼくはスニーカーを履いた。中庭へ回り、ロクちゃんを連れ、道路へと出る。

 蒸し暑さの残る夜道だ。

 いつもの角を曲がり、ロクちゃんはあの公園へと一目散に向かう。

 昼間は青々としていた葉も、いまは闇に混じって暗い色をしている。それでも、蝉しぐれの名残りなんかは聞こえてきそうだった。

 家を出る前からずっとそわそわしていたロクちゃんが、公園に入ってとうとう走り出した。


「ロクちゃん……っ。待ってって」


 ぼくは、この突然の猛進にいまだに慣れない。

 公園の奥に、薄明かりに照らされるベンチがある。きょうは、だれかが座っていた。

 ロクちゃんはその人へと突進していく。

 それを止めることもできないまま、ぼくは徐々に迫る彼を見つめた。

 勇気くんだ。前屈みになって地面を見下ろしている。

 でも、ぼくらには気づいていない。

 ロクちゃんが吠えた。

 勇気くんの上半身が動いて、久しぶりに合わせる顔がぼくを捉えた。

 まだ東京にいると思っていた姿が目の前にあって、ぼくは固まってしまった。つい、ロクちゃんの綱を放してしまう。


「ロク、わかったから。そんなに飛びつくな」


 よしよしとロクちゃんを宥め、勇気くんはおもむろに立ち上がった。素早く綱を取って、近づいてくる。

 今度はぼくが見上げるほうになる。

 ドキドキした。

 久しぶりに会うからか、夜の公園がそうさせているのか、平気になったはずの至近距離に、めまいが起きそうだった。

 ぼくは思わず視線を落とした。

 そこへ降ってくる、明るく弾んだ声──。


「ごめん。負けちゃって」

「えっ?」

「善之さんから聞いてない? おれたちが負けたこと」


 ぼくは顔を上げた。首を横に振る。

 もちろん、試合のことはずっと気になっていたけど、肝心の善之さんが寝ていたから、結果はわからずじまいだった。勇気くんなら負けるはずはないと思い込んでいたのもある。

 すごくがっくりして、ぼくは言葉を失った。

 勇気くんがしゃがみ、ロクちゃんを容赦なく撫で回す。そんな、いつもと変わらない姿を見下ろして、ぼくははっとなった。

 実際に試合をした勇気くんのほうが、ぼくより数倍……いや、数百倍も悔しいに決まっている。いまは明るくしているけれど、本当は泣きたいくらい残念だったに違いない。


「負けたら即解散。あっけないもんだよな。それで、もう帰って来ちゃったわけ」

「あ、あのね。ごめんねっ」


 ぼくもしゃがんで、心ない態度を取ったことを謝ると、勇気くんは目で窺うような仕草をした。


「なんで人夢が謝るんだよ」

「だって」

「もしかして、おれに気ぃ使ってくれてんの?」


 うんと言いかけて、詰まってしまった。

 頷くのも変だし、ううんと首を振るのも変だ。曖昧にしようと首を傾げていたら、勇気くんがぷっと吹き出した。

 ロクちゃんにするのと変わらない感じで、ぼくの頭を撫でる。


「たしかに負けて悔しかったけど、県大会でおれは終わると思ってたから、全国には行けただけで満足だ。それに、大会も終わったから、もう少し人夢と会える時間が増えるかなと思うと、むしろ嬉しいっつうか」

「……」

「まあ、先輩たちとは最後の試合になっちゃったから、その辺のさみしさみたいなもんはあるけど」


 勇気くんはそこまで言うと、なにかを思い立ったようにぼくの腕を取った。引っ張り、一緒に立ってと促す。

 戸惑いつつも腰を上げた途端に、ぼくは抱きしめられた。そうしてぴったりとくっつくと、勇気くんの本当の気持ちも見えてくる。

 ……ううん。ぼくは、たしかに見たんだ。

 さっき公園に入ったとき、勇気くんはベンチで前屈みになっていて、茫然と地面を見据えていた。

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