三
きっと、善之さんがいまのバイトをすると言ったとき、一清さんは反対したんだと思う。
ママさんを始め、ホステスさんたちもいい人ばかりで、この辺では有名な人気のあるお店であったとしても、職種が職種なだけにキケンも多い。それでも、ああして働いているということは、善之さんを一人の大人として認めていて、きちんと信じているって証拠なんだ。
「ぼく、ロクちゃんの散歩行ってくるね」
納戸から綱とポーチを取って、台所の一清さんへ声をかける。
暗黙の了解じゃないけど、お兄ちゃんの「遅くなる」には、ロクちゃんの散歩をぼくに任すという意味もあるのだ。
「時間も遅いから、きょうは行かなくていい」
玄関へ行こうとしたら、一清さんに呼び止められた。
「でも、ロクちゃん、さっきからそわそわしてて」
まだ八時だから大丈夫。
と残して、ぼくはスニーカーを履いた。中庭へ回り、ロクちゃんを連れ、道路へと出る。
蒸し暑さの残る夜道だ。
いつもの角を曲がり、ロクちゃんはあの公園へと一目散に向かう。
昼間は青々としていた葉も、いまは闇に混じって暗い色をしている。それでも、蝉しぐれの名残りなんかは聞こえてきそうだった。
家を出る前からずっとそわそわしていたロクちゃんが、公園に入ってとうとう走り出した。
「ロクちゃん……っ。待ってって」
ぼくは、この突然の猛進にいまだに慣れない。
公園の奥に、薄明かりに照らされるベンチがある。きょうは、だれかが座っていた。
ロクちゃんはその人へと突進していく。
それを止めることもできないまま、ぼくは徐々に迫る彼を見つめた。
勇気くんだ。前屈みになって地面を見下ろしている。
でも、ぼくらには気づいていない。
ロクちゃんが吠えた。
勇気くんの上半身が動いて、久しぶりに合わせる顔がぼくを捉えた。
まだ東京にいると思っていた姿が目の前にあって、ぼくは固まってしまった。つい、ロクちゃんの綱を放してしまう。
「ロク、わかったから。そんなに飛びつくな」
よしよしとロクちゃんを宥め、勇気くんはおもむろに立ち上がった。素早く綱を取って、近づいてくる。
今度はぼくが見上げるほうになる。
ドキドキした。
久しぶりに会うからか、夜の公園がそうさせているのか、平気になったはずの至近距離に、めまいが起きそうだった。
ぼくは思わず視線を落とした。
そこへ降ってくる、明るく弾んだ声──。
「ごめん。負けちゃって」
「えっ?」
「善之さんから聞いてない? おれたちが負けたこと」
ぼくは顔を上げた。首を横に振る。
もちろん、試合のことはずっと気になっていたけど、肝心の善之さんが寝ていたから、結果はわからずじまいだった。勇気くんなら負けるはずはないと思い込んでいたのもある。
すごくがっくりして、ぼくは言葉を失った。
勇気くんがしゃがみ、ロクちゃんを容赦なく撫で回す。そんな、いつもと変わらない姿を見下ろして、ぼくははっとなった。
実際に試合をした勇気くんのほうが、ぼくより数倍……いや、数百倍も悔しいに決まっている。いまは明るくしているけれど、本当は泣きたいくらい残念だったに違いない。
「負けたら即解散。あっけないもんだよな。それで、もう帰って来ちゃったわけ」
「あ、あのね。ごめんねっ」
ぼくもしゃがんで、心ない態度を取ったことを謝ると、勇気くんは目で窺うような仕草をした。
「なんで人夢が謝るんだよ」
「だって」
「もしかして、おれに気ぃ使ってくれてんの?」
うんと言いかけて、詰まってしまった。
頷くのも変だし、ううんと首を振るのも変だ。曖昧にしようと首を傾げていたら、勇気くんがぷっと吹き出した。
ロクちゃんにするのと変わらない感じで、ぼくの頭を撫でる。
「たしかに負けて悔しかったけど、県大会でおれは終わると思ってたから、全国には行けただけで満足だ。それに、大会も終わったから、もう少し人夢と会える時間が増えるかなと思うと、むしろ嬉しいっつうか」
「……」
「まあ、先輩たちとは最後の試合になっちゃったから、その辺のさみしさみたいなもんはあるけど」
勇気くんはそこまで言うと、なにかを思い立ったようにぼくの腕を取った。引っ張り、一緒に立ってと促す。
戸惑いつつも腰を上げた途端に、ぼくは抱きしめられた。そうしてぴったりとくっつくと、勇気くんの本当の気持ちも見えてくる。
……ううん。ぼくは、たしかに見たんだ。
さっき公園に入ったとき、勇気くんはベンチで前屈みになっていて、茫然と地面を見据えていた。
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