次の日の朝、ベッドを起き上がってすぐに思い出したのは、きのうの健ちゃんの言葉だった。胸のどこかに、まだ引っかかっている。

 なかなか晴れない頭を抱えながら、少し遅めの朝ご飯を食べる。

 しかし、後片付けを終えたころに帰ってきた善之さんの一言で、ぼくの目は一気に冴えた。


「三津谷、勝てるといいな」


 きょうは、東京で、勇気くんの試合が行われる日だった。

 そんな大事なことを、ちょっとでも忘れていた自分を、心の中で咎める。

 絶対に勝てると信じているけれど、せめてもという思いで、東京へ向かって手を合わせた。


「そうやって祈ったところで、どうにかなるもんでもねえだろ」


 太陽が最も高くなった、お昼過ぎごろ。クーラーのない自室では、とても勉強どころじゃなく、居間の座卓の上でテキストを広げていた。

 そこへ、お兄ちゃんの声が不意に降ってきた。

 ぼくは、テキストに注いでいた視線をぱっと上げる。


「え?」

「だから、問題を解くのに神頼みって、お門違いにもほどがあるっつうハナシ」


 そう言ってお兄ちゃんは、ぼくの向かいに腰を下ろした。座卓へ投げた新聞を挟むように肘をつき、大げさに手をすり合わせ、「お願いします。どうか解けてください」と唱える。

 そして、なにかを含んだ目つきでぼくを見た。


「な? はたから見ると笑えるだろ?」

「べつにいいじゃん。問題が難しくなると、神頼みもしたくなるんだから」


 ぼくはどうやらテキストへも手を合わせていたみたいだ。

 もちろん神頼みをしていたわけではないけど、恥ずかしさの余り、めちゃくちゃな反論をしていた。

 それを小馬鹿にするように鼻を鳴らし、後頭部を掻きながら、お兄ちゃんは新聞を読み始めた。

 ぼくは、テキストへ再び意識をやろうとして、でも、どっしりと腰を落ち着けている目の前も気になって、ちらりと盗み見た。

 こっちに興味がなくなったのを確認してから、問題に取りかかる。

 しかし、やっぱり難問ばかりで、悩んでいるうちに思考はどんどんと脱線していった。

 時計を見上げ、善之さんの言っていた試合時間が近いことを知る。いまはどんな気持ちでいるんだろうと、余計な心配をした。

 新聞を折り畳む音が聞こえた。

 乱暴に現実へと戻されたぼくは、はっと顧みる。また手を合わせ、テキストを拝んでいた。

 恐る恐る目を上げれば、お兄ちゃんは頬杖をついて、ぼくを見据えていた。


「お前さ、ほんと素直じゃねえな。神頼みじゃなくて、ここは『アニキ頼み』だろ」


 ぼくは目をぱちぱちさせた。

 すると、お兄ちゃんはいきなり立ち上がり、どしどしと居間を去っていった。残されたぼくは、その背中が消えたほうをただ見つめるしかできない。

 二階へ向かった足音が、また降りてくる。障子戸もすぐに開かれた。

 ふてくされたような顔をして、お兄ちゃんは手にしてきたものを座卓へぽんと投げた。

 一冊のバインダーだった。表紙に「数学」と書かれてある。


「俺が受験のときに使ってたやつだ。いろいろまとめたのだから、それにも適応すんだろ」


 それだけ言うと、お兄ちゃんはまたいなくなってしまった。玄関の戸が開け閉めされる音も聞こえた。

 相変わらずの展開の早さで、ため息すら出ない。

 バインダーを手元まで引いてゆっくり開くと、お兄ちゃんの言いたかったことが少しずつ見えてきた。


「この数学の問題がわからないから、お兄ちゃん、教えて」


 そう頼ってほしかったのかもしれない。

 ……素直じゃないのは、お兄ちゃんのほうじゃないか。

 いつもより少し丁寧に書かれてあるルーズリーフの文字を見ながら、ぼくはささやかな悪態をついた。



 それから、お兄ちゃんはなかなか帰ってこなかった。

 七時ごろ帰宅した一清さんに、お兄ちゃんはまだ帰ってないと言ったら、遅くなるとメールがきたと返された。

 ちょっと心配になっていたぼくの口から、非難の叫び声が出たのは言うまでもない。その拍子に落としそうになったお茶碗を、慌てて抱え込む。


「大丈夫か?」

「うん」

「しかし、あいつも困ったやつだな」


 食卓の椅子にスーツの上着とカバンを置いた一清さんは、ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開けた。


「善之は上にいるのか? ガレージに車があったけど」

「うん。きょうはバイト休みなんだって」

「遅かったのか? 帰ってくるのは」

「ううん、そんなでも……。ええと、朝の八時ごろかな」


 一清さんは、冷蔵庫から出したミネラルウオーターと、コップ、ぼくがよそったご飯とお味噌汁を食卓に並べ、そうかと頷いた。おかずはすでに電子レンジへと収まっている。

 二十歳になったとはいえ、善之さんはまだ学生だ。お兄ちゃんほどではないだろうけど、やっぱりいろいろと心配なんだと思う。

 お店の人とバイト終わりに飲むこともままある。お昼近くになって帰ってきた日もあった。

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