二
次の日の朝、ベッドを起き上がってすぐに思い出したのは、きのうの健ちゃんの言葉だった。胸のどこかに、まだ引っかかっている。
なかなか晴れない頭を抱えながら、少し遅めの朝ご飯を食べる。
しかし、後片付けを終えたころに帰ってきた善之さんの一言で、ぼくの目は一気に冴えた。
「三津谷、勝てるといいな」
きょうは、東京で、勇気くんの試合が行われる日だった。
そんな大事なことを、ちょっとでも忘れていた自分を、心の中で咎める。
絶対に勝てると信じているけれど、せめてもという思いで、東京へ向かって手を合わせた。
「そうやって祈ったところで、どうにかなるもんでもねえだろ」
太陽が最も高くなった、お昼過ぎごろ。クーラーのない自室では、とても勉強どころじゃなく、居間の座卓の上でテキストを広げていた。
そこへ、お兄ちゃんの声が不意に降ってきた。
ぼくは、テキストに注いでいた視線をぱっと上げる。
「え?」
「だから、問題を解くのに神頼みって、お門違いにもほどがあるっつうハナシ」
そう言ってお兄ちゃんは、ぼくの向かいに腰を下ろした。座卓へ投げた新聞を挟むように肘をつき、大げさに手をすり合わせ、「お願いします。どうか解けてください」と唱える。
そして、なにかを含んだ目つきでぼくを見た。
「な? はたから見ると笑えるだろ?」
「べつにいいじゃん。問題が難しくなると、神頼みもしたくなるんだから」
ぼくはどうやらテキストへも手を合わせていたみたいだ。
もちろん神頼みをしていたわけではないけど、恥ずかしさの余り、めちゃくちゃな反論をしていた。
それを小馬鹿にするように鼻を鳴らし、後頭部を掻きながら、お兄ちゃんは新聞を読み始めた。
ぼくは、テキストへ再び意識をやろうとして、でも、どっしりと腰を落ち着けている目の前も気になって、ちらりと盗み見た。
こっちに興味がなくなったのを確認してから、問題に取りかかる。
しかし、やっぱり難問ばかりで、悩んでいるうちに思考はどんどんと脱線していった。
時計を見上げ、善之さんの言っていた試合時間が近いことを知る。いまはどんな気持ちでいるんだろうと、余計な心配をした。
新聞を折り畳む音が聞こえた。
乱暴に現実へと戻されたぼくは、はっと顧みる。また手を合わせ、テキストを拝んでいた。
恐る恐る目を上げれば、お兄ちゃんは頬杖をついて、ぼくを見据えていた。
「お前さ、ほんと素直じゃねえな。神頼みじゃなくて、ここは『アニキ頼み』だろ」
ぼくは目をぱちぱちさせた。
すると、お兄ちゃんはいきなり立ち上がり、どしどしと居間を去っていった。残されたぼくは、その背中が消えたほうをただ見つめるしかできない。
二階へ向かった足音が、また降りてくる。障子戸もすぐに開かれた。
ふてくされたような顔をして、お兄ちゃんは手にしてきたものを座卓へぽんと投げた。
一冊のバインダーだった。表紙に「数学」と書かれてある。
「俺が受験のときに使ってたやつだ。いろいろまとめたのだから、それにも適応すんだろ」
それだけ言うと、お兄ちゃんはまたいなくなってしまった。玄関の戸が開け閉めされる音も聞こえた。
相変わらずの展開の早さで、ため息すら出ない。
バインダーを手元まで引いてゆっくり開くと、お兄ちゃんの言いたかったことが少しずつ見えてきた。
「この数学の問題がわからないから、お兄ちゃん、教えて」
そう頼ってほしかったのかもしれない。
……素直じゃないのは、お兄ちゃんのほうじゃないか。
いつもより少し丁寧に書かれてあるルーズリーフの文字を見ながら、ぼくはささやかな悪態をついた。
それから、お兄ちゃんはなかなか帰ってこなかった。
七時ごろ帰宅した一清さんに、お兄ちゃんはまだ帰ってないと言ったら、遅くなるとメールがきたと返された。
ちょっと心配になっていたぼくの口から、非難の叫び声が出たのは言うまでもない。その拍子に落としそうになったお茶碗を、慌てて抱え込む。
「大丈夫か?」
「うん」
「しかし、あいつも困ったやつだな」
食卓の椅子にスーツの上着とカバンを置いた一清さんは、ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開けた。
「善之は上にいるのか? ガレージに車があったけど」
「うん。きょうはバイト休みなんだって」
「遅かったのか? 帰ってくるのは」
「ううん、そんなでも……。ええと、朝の八時ごろかな」
一清さんは、冷蔵庫から出したミネラルウオーターと、コップ、ぼくがよそったご飯とお味噌汁を食卓に並べ、そうかと頷いた。おかずはすでに電子レンジへと収まっている。
二十歳になったとはいえ、善之さんはまだ学生だ。お兄ちゃんほどではないだろうけど、やっぱりいろいろと心配なんだと思う。
お店の人とバイト終わりに飲むこともままある。お昼近くになって帰ってきた日もあった。
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