ぼくは玄関を振り返ったけれど、花火を見たい気持ちをぐっとこらえ、居間へ戻った。

 今夜は絶対に見ないと決めたんだ。それが鮮やかできれいなほど、ぼくは悲しくなるだけだから。

 むなしくなるだけだから──。

 気づけば、その葛藤を表すように、華やかな一発の音と、そのあとに漂うさみしい静けさが、我が家を包み始めていた。





「……ロクちゃん?」


 最初の花火が打ち上がってからどのくらいたったころか、庭にいるロクちゃんが気になって、ぼくは廊下の戸を開けてみた。

 いつも置いてある、大きめのサンダルをつっかける。しゃがみ込むと、もっと腰を屈めて、ロクちゃんの小屋を覗いた。

 犬は、人よりも聴覚が発達しているというから、花火の音はさぞかしうるさいだろう。もしかしたら、びくびく怯えているかもしれない。

 ……という心配は、篠原さんちの飼い犬には無用だったみたいだ。こっちに背中を向け、ロクちゃんは丸まっていた。

 呼んでも、耳だけを動かして、まるで面倒くさそうに応えていた。

 そんなぼくの背中に、今度はこまかい音が降り注ぐ。これでもかこれでもかと、怒涛のように鳴り響いた。

 スターマインだ。

 その音に誘われるままにぼくは腰を上げ、塀のほうへ体を寄せた。つま先立ちになり、首を目いっぱい伸ばせば、うちのお風呂場ととなりの家の隙間から、なんとか花火を見ることができた。

 スターマインが佳境へ近づくたび、頭半分だった花火も、向かいの家の上にきれいな円を描くようになった。

 ぼくは、その迫力に完全に飲み込まれ、夢中で見入っていた。

 突然、ロクちゃんが吠えた。

 それまでうんともすんとも鳴かずに寝ていたのに、いきなりどうしたんだろうと顔を向けたぼくは、廊下に人が立っていることに気づいて、目を剥いた。もとより、声なんて出なかった。


「人夢……」


 休む間もなくドンと開いた尺玉の音に、重なる声。その人は、肩で息をしながら、手にしていたスニーカーを庭に置いた。

 とても嬉しそうにしっぽを振って、ロクちゃんが小屋から出てくる。


「ロク、勝手に上がったこと、篠原さんたちには内緒にしててくれよな」


 にかっと笑って、スニーカーを履く。そうして近づく姿を、ぼくはぼう然と見つめた。


「そして、人夢もな」

「なんで」


 やっと出せた声は、また始まったスターマインにかき消された。


「どうしても一緒に花火が見たくて、迎えに来た」


 どきっとなったけれど……ぼくは素直に喜べない。


「突然ごめんな。さっき会場で健に会って、お前は一緒じゃないと知ったんだ。家にいるんじゃないかと教えられて、猛ダッシュでここに来た」

「でも──」


 久野さんは?

 それが一番気になることだった。

 また一つ、大きな花火が咲く。

 悔しいくらい着実に大人の輪郭を描き始めている勇気くんの顔が、その色に染まる。

 見とれてしまっていた。やっぱり、彼が好きなんだと、改めて思った。


「急にこんな話すんのもあれだけどさ。なんつうか。おれも含めて、周りの友だちとか、ときどき、どうすれば自分は楽できるかなって、打算みたいなのをしてしまう。でもお前は、お父さんの好きなこの町で暮らしたいってだけで、だれひとり知る人のいない家へ、全くの新しい環境へ飛び込んだ」

「……」

「そういう人夢が、おれを見つけて、おれの名前を呼んでくれて、おれのとなりで笑ってるのが嬉しかった。すげえ嬉しかった」


 抱きすくめられた。

 勇気くんの懐がもっと開かれた気がして、ぼくは迷うことなく手を伸ばして応えた。

 いまなら言える。

 あのときから激しく刻まれ続けているハートビートに乗せて──。


「勇気くん」

「ん?」

「ぼく、勇気くんと久野さんがフウフみたいな仲でも構わない。それでも……勇気くんが好きだから」


 一呼吸の間ののち、ため息混じりの、かすれた声がぼくの耳たぶをなぞっていった。


「フウフって。なんだよ、それ」

「今夜も、本当は久野さんとお祭りに行ってたんでしょ? ぼく見たんだ。公園で、勇気くんと久野さんが……」


 すると、勇気くんがぼくの肩を掴んで、顔を覗き込んできた。


「あれを見てたのか? つうか、人夢──」

「いいんだ」


 ゆっくりと、ぼくは首を横に振った。


「こうして、勇気くんが来てくれたことが嬉しいから、もういいんだ」

「よくねえって」


 呆れ顔の勇気くんは、自分の胸に、またぼくを収めた。


「おれが、きょう人夢と祭りに行けないって言ったのは、うちは毎年、家族で花火を見るのが行事になっているからで、本当は親に断ってたんだけど、それを聞いた妹と弟に泣かれてやむなく……。リエだって、あいつはずっと、本気で好きな人がいて、その人にまたコクったけど、ふられて、それでわんわん泣いてたのをなぐさめてただけなんだ」

「……」

「ここまできて、おれとあいつがフウフでもいいって……。お前」


 怒っているのか、勇気くんの声は震えている。


「おれだって、お前のことが好きだ」


 その言葉のあとに打ち上がった花火が、今年最後の一発だった。

 まさしく、有終の美を飾るような、ぼくらの始まりを後押ししてくれるような大輪。

 来年は、もっと近くで一緒に見ようね。

 手をつないで、最後のひとひらが闇に消えるまでを、二人で見届けた。




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