三
ぼくは玄関を振り返ったけれど、花火を見たい気持ちをぐっとこらえ、居間へ戻った。
今夜は絶対に見ないと決めたんだ。それが鮮やかできれいなほど、ぼくは悲しくなるだけだから。
むなしくなるだけだから──。
気づけば、その葛藤を表すように、華やかな一発の音と、そのあとに漂うさみしい静けさが、我が家を包み始めていた。
「……ロクちゃん?」
最初の花火が打ち上がってからどのくらいたったころか、庭にいるロクちゃんが気になって、ぼくは廊下の戸を開けてみた。
いつも置いてある、大きめのサンダルをつっかける。しゃがみ込むと、もっと腰を屈めて、ロクちゃんの小屋を覗いた。
犬は、人よりも聴覚が発達しているというから、花火の音はさぞかしうるさいだろう。もしかしたら、びくびく怯えているかもしれない。
……という心配は、篠原さんちの飼い犬には無用だったみたいだ。こっちに背中を向け、ロクちゃんは丸まっていた。
呼んでも、耳だけを動かして、まるで面倒くさそうに応えていた。
そんなぼくの背中に、今度はこまかい音が降り注ぐ。これでもかこれでもかと、怒涛のように鳴り響いた。
スターマインだ。
その音に誘われるままにぼくは腰を上げ、塀のほうへ体を寄せた。つま先立ちになり、首を目いっぱい伸ばせば、うちのお風呂場ととなりの家の隙間から、なんとか花火を見ることができた。
スターマインが佳境へ近づくたび、頭半分だった花火も、向かいの家の上にきれいな円を描くようになった。
ぼくは、その迫力に完全に飲み込まれ、夢中で見入っていた。
突然、ロクちゃんが吠えた。
それまでうんともすんとも鳴かずに寝ていたのに、いきなりどうしたんだろうと顔を向けたぼくは、廊下に人が立っていることに気づいて、目を剥いた。もとより、声なんて出なかった。
「人夢……」
休む間もなくドンと開いた尺玉の音に、重なる声。その人は、肩で息をしながら、手にしていたスニーカーを庭に置いた。
とても嬉しそうにしっぽを振って、ロクちゃんが小屋から出てくる。
「ロク、勝手に上がったこと、篠原さんたちには内緒にしててくれよな」
にかっと笑って、スニーカーを履く。そうして近づく姿を、ぼくはぼう然と見つめた。
「そして、人夢もな」
「なんで」
やっと出せた声は、また始まったスターマインにかき消された。
「どうしても一緒に花火が見たくて、迎えに来た」
どきっとなったけれど……ぼくは素直に喜べない。
「突然ごめんな。さっき会場で健に会って、お前は一緒じゃないと知ったんだ。家にいるんじゃないかと教えられて、猛ダッシュでここに来た」
「でも──」
久野さんは?
それが一番気になることだった。
また一つ、大きな花火が咲く。
悔しいくらい着実に大人の輪郭を描き始めている勇気くんの顔が、その色に染まる。
見とれてしまっていた。やっぱり、彼が好きなんだと、改めて思った。
「急にこんな話すんのもあれだけどさ。なんつうか。おれも含めて、周りの友だちとか、ときどき、どうすれば自分は楽できるかなって、打算みたいなのをしてしまう。でもお前は、お父さんの好きなこの町で暮らしたいってだけで、だれひとり知る人のいない家へ、全くの新しい環境へ飛び込んだ」
「……」
「そういう人夢が、おれを見つけて、おれの名前を呼んでくれて、おれのとなりで笑ってるのが嬉しかった。すげえ嬉しかった」
抱きすくめられた。
勇気くんの懐がもっと開かれた気がして、ぼくは迷うことなく手を伸ばして応えた。
いまなら言える。
あのときから激しく刻まれ続けているハートビートに乗せて──。
「勇気くん」
「ん?」
「ぼく、勇気くんと久野さんがフウフみたいな仲でも構わない。それでも……勇気くんが好きだから」
一呼吸の間ののち、ため息混じりの、かすれた声がぼくの耳たぶをなぞっていった。
「フウフって。なんだよ、それ」
「今夜も、本当は久野さんとお祭りに行ってたんでしょ? ぼく見たんだ。公園で、勇気くんと久野さんが……」
すると、勇気くんがぼくの肩を掴んで、顔を覗き込んできた。
「あれを見てたのか? つうか、人夢──」
「いいんだ」
ゆっくりと、ぼくは首を横に振った。
「こうして、勇気くんが来てくれたことが嬉しいから、もういいんだ」
「よくねえって」
呆れ顔の勇気くんは、自分の胸に、またぼくを収めた。
「おれが、きょう人夢と祭りに行けないって言ったのは、うちは毎年、家族で花火を見るのが行事になっているからで、本当は親に断ってたんだけど、それを聞いた妹と弟に泣かれてやむなく……。リエだって、あいつはずっと、本気で好きな人がいて、その人にまたコクったけど、ふられて、それでわんわん泣いてたのをなぐさめてただけなんだ」
「……」
「ここまできて、おれとあいつがフウフでもいいって……。お前」
怒っているのか、勇気くんの声は震えている。
「おれだって、お前のことが好きだ」
その言葉のあとに打ち上がった花火が、今年最後の一発だった。
まさしく、有終の美を飾るような、ぼくらの始まりを後押ししてくれるような大輪。
来年は、もっと近くで一緒に見ようね。
手をつないで、最後のひとひらが闇に消えるまでを、二人で見届けた。
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