三
「……」
そんなの忘れるはずがない。
あのときは本当にお兄ちゃんが怖くて、無視されたことに愕然としていたんだから。
「……忘れてないよ」
そのあとに居間で言われたことだって。
たくさんたくさん、身がすくみ上がる思いをした。
お兄ちゃんにはきっと、あのときのぼくの気持ちなんて、一生わからないんだろうけど。
「じつを言うと、お前を初めて見たとき、どうしたらいいかわかんなくなってたんだよな」
ぼくは、ハンバーグのタネをやみくもに練っていた手を止め、包丁を置いたお兄ちゃんを見上げた。
お兄ちゃんが今度はニンジンを手にした。
「お前には悪いけど、やっぱ、俺ん中でも弟のイメージってもんがあって、お前は、それからかけ離れてたんだよな。どう接していいかわかんなくて、そういう自分を見せるのもカッコ悪ぃ気がしてた。そんなんじゃあ、アニキっつうもんの威厳もなくなるし……」
ニンジンを切りながら、お兄ちゃんはあのときの自分を省みているようだった。微笑したり苦笑したりしている。
その横顔に、お兄ちゃんの本当を見た気がした。
あの切ないお話は色あせてしまったけれど、恐いお兄ちゃんも、ぼくの中では薄れていった。
「いまはもういいの?」
「ん? なにが?」
「カッコ悪い自分を見せるのも、アニキの威厳も」
「弟がアニキより下なのは、年功序列で一目瞭然だろ。だったら、どうしたら兄貴みたいなアニキになれるか、それだけを考えようと思った」
ムリは百も承知だけど。
お兄ちゃんはそうつけ加えた。
ぼくは首を振る。
「なにも、おなじになる必要なんてない。一清さんには一清さんの、お兄ちゃんにはお兄ちゃんのいいところがあるんだから」
「たとえば?」
「う、」
言葉を詰まらせてしまった。
すかさず、お兄ちゃんはツッコみを入れる。
「せっかく俺がいい話をしてたのに。流れを壊すんじゃねえ、流れを」
「ごめん……」
お兄ちゃんがぼくの頭を撫でた。
一清さんや広美さんみたく決して柔らかい手つきじゃなかったけれど、逆にそれがお兄ちゃんらしくて、とてもあったかい気持ちになった。
「ほら、ぜんぶ切れたぞ」
強めに背中を叩かれ、ぼくは我に返った。
こういうところの手加減は知らないから、せっかくの雰囲気が台無しになる。
「つうか、お前。いつまでそれ練ってんだ」
「うん。いま終わる」
ちょっと口を尖らせつつぼくは手を洗った。
「お兄ちゃん。さっきのジャガイモをマッシャーでつぶして、切った野菜とマヨネーズであえて」
「マッシャー?」
ぼくは流し台の引き出しを開け、これと、ポテトマッシャーを出した。
物珍しげに見るような顔をして受け取ったあと、お兄ちゃんは冷蔵庫を開けた。しかし、「ああ?」と唸る。
「人夢。マヨネーズがねえ」
「うそ」
ぼくはお兄ちゃんの前に出て、マヨネーズの定位置に目をやった。
たしかにない。
「でも大丈夫。予備があるはずだから」
サイドボードもくまなく探したけれど、ケチャップしか見つからなかった。
「じゃあ、仕方ねえ。きょうはしょうゆ味ってことで」
「あのね。……いいや、ぼく買ってくる」
エプロンを外そうとしたら、お兄ちゃんの手が出てきた。
「俺がバイクでひとっ飛び、マヨネーズでもなんでも買ってきてやる」
「ありがとう」と、喉まで出しかけて、ぼくはぐっと呑み込んだ。
お兄ちゃんに任せたら、絶対、いらないものまで買ってくるか、遅くなる。
「いいよ、いいよ。ぼくが行くから」
行く気満々だったお兄ちゃんをなんとか留め、ぼくは財布を片手に、急いで台所をあとにした。
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