見えない線は、そう教えてくれている気がした。

 ぼくが見つめ返していると、いつもより表情のない勇気くんが、徐々に頬を緩めていった。

 すぐそこで、ぼくだけの太陽が破顔っている。

 ひと息で、その光に満たされた。

 ぼくは声に出さず、口の動きだけでいま伝えたいことをなぞった。


「がんばって」


 それに大きく頷いて、勇気くんは応えてくれた。





 きのうと打って変わって、きょうは晴れ晴れとした気分で迎えられた。

 お兄さんたちの布団を干し、家中をくまなく掃除して、気づけばもう夕方になっていた。

 夏休みに入ってから日課になりつつある、夕ご飯の支度に取りかかる。ぼくが台所に立つと、お兄ちゃんが珍しく「手伝う」と言ってきた。

 ううん。よく考えてみると「珍しく」じゃない。……初めてだ。


「お兄ちゃん。火が大きいよ。火を小さくして。焦げるから!」

「わかってる! わかってっから、そんなキャンキャン吠えんな」


 ぼくに逆ギレしながらもお兄ちゃんはすごく焦って、コンロのつまみをひねった。腰をかがめ、火加減を見る。

 きょうの夕ご飯のメニューは、行田家特製のレンコン入りハンバーグと、ポテトサラダだ。

 それでいまは、ポテトサラダ担当のお兄ちゃんに、茹でたジャガイモをから煎りしてもらっているところ。一方、ハンバーグ担当のぼくは、ボウルのタネをかき混ぜつつ、お兄ちゃんにあれやこれやと指示していた。

 最初は強く言えなかったけど、お兄ちゃんのあまりの不器用さに、遠慮なんてものはどこかへいってしまった。

 お兄さんたちはとても器用なのに……。


「そろそろいいかな。お兄ちゃん、お鍋をコンロから外して、その布巾に乗せて。冷ますから」

「へーへー」


 すっかりむくれ面になっている。

 でも、お兄ちゃんは投げ出さないで、とりあえずは言うことを聞いてくれている。ジャガイモのお鍋を食卓に置き、サラダに入れる野菜を切り始めた。


「そのキュウリ、いくらなんでもぶ厚いよ」

「うっせえ」

「漬け物じゃないんだよ」

「あごが鍛えられんだろ」


 昔ながらの流し台だから、背の高いお兄ちゃんは腰をかがめて作業しなければならない。

 お兄さんたちは、それさえも絵になるくらいだったのに、お兄ちゃんだと笑える。節くれだった大きな手で、ぶ厚く切ってしまったキュウリに小細工している姿も。

 クスクスしていたら、案の定、睨まれてしまった。

 お兄ちゃんは、その目をまな板に戻して、さりげなく訊いてきた。


「お前もさ、やっぱ朝アソコが起ったりすんの?」


 あまりに唐突で、ぼくは最初、なにを言っているのかわからなかった。

 じっとお兄ちゃんの横顔を見る。


「なんだよ、その顔。そこまで変なことは訊いてねえだろ?」

「……」


 ぼくは、そこはかとなく距離を取る。


「引くな。つうか、兄弟の会話のテッパンだろ。そんなふうにされると、こっちが恥ずかしくなってくるわ」

「テッパン? まさか一清さんたちともそんな話……」


 いやだ。考えたくもない。そんなことを平気で訊くような一清さんを。

 もちろん広美さんだって。

 善之さんは……。


「兄貴とはしねえよ。善之とはするけど」


 お兄ちゃんは笑いながら言って、止めていた手を再び動かした。

 なんとなく、善之さんは納得できる。

 ぼくは、一清さんとはしないと聞いて、心底ほっとした。


「だから、弟ができるんなら、そういうのをいつか訊いてやろうと思ってて」


 開いた口が塞がらなかった。

 弟ができたらいいと、たくさん夢見て、叶わないお願いをいつもしていたというお兄ちゃんの切ないお話が、一気に色あせていった。

 あんなに同情したのに。

 あのときのぼくの苦悩を返せと、声を大にして言いたい。


「……で?」

「え」

「実際のところどうなんだよ? 朝のアレは」


 お兄ちゃんは至って真剣なまなざしだった。

 かといって、変にニヤニヤされるのも嫌だ。

 ぼくは、まだまだ威圧的な視線に負け、正直に答えるしかなかった。


「……するよ」

「あれさ、ションベンしにくいよな。無理やり下向けて屈んでみたりもして」

「……」

「まあ、お前も立派な男だもんなあ。ぶっちゃけ、始め見たときは、どこのオンナノコが訪ねてきたのかと思ったけど」


 ぼくはすでに恥ずかしく、顔を俯かせていると、お兄ちゃんが横から顔を覗かせてきた。


「な、なに?」

「もう忘れたか」

「え?」

「俺と初めて会ったときのこと」

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