以心伝心



 次の日の朝、ぼくはいつもより遅い時間に家を出た。なかなかベッドから起きられなかったからだ。

 きょうは、学校の体育館で、全中大会に出場する野球部の壮行会が行われる。

 なにも持ってこなくていいと聞いていたけれど、なんとなく手ぶらで行くのが気持ち悪くて、ついカバンを肩にかけていた。

 ぼくは学校へ着くと、だいたいの人が体育館で留まる中、カバンを置くため教室へ向かった。階段を駆け上がり、出入り口まで小走りで行く。

 後ろの戸が開いていて、小走りの勢いのままくぐろうとしたけれど、途中で足を止めた。

 窓ぎわの一番前だった。机に腰を引っかけ、腕を組んで窓の外を眺めている小林先生の姿があった。


「おはようございます……」


 ゆっくりと自分の席に向かいながら挨拶をした。

 ぼくに気づくと、先生は振り返って、腰を上げた。


「ああ、おはよう。……なんだ、篠原。きょうは体育館で点呼だぞ」


 先生はきょうもスーツ姿だ。でも、ネクタイは締めていない。ワイシャツの胸元がかなり開いている。


「すみません。カバンを持って来ちゃったので……」


 ぼくは軽く頭を下げ、自分の机にカバンを置いた。

 すぐに教室を出ようとしたけど、なんだか先生のことが気になって、出入り口をまたぐ前に振り返った。

 先生がぼくをじっと見ている。

 生徒の動向を見守るのは、教師として当然かもしれない。

 だから、最初はなんとも感じなかったけれど、先生がにこりともしないで視線を外したから、ちょっとびっくりした。

 しばらく固まっていると、すかさず声が飛んできた。


「どうした? 早く行かないと、点呼を取ってる久野が困るだろ」


 そういえば、きょうは学級委員長の勇気くんが壇上の人だから、副委員長の久野さんが仕切っているんだ。

 ぼくはそのことに気づいて、慌てて足を出した。

 体育館に通じる廊下は、にぎやかな声を反響させていて、ぼくはほっとした。まだ壮行会は始まってない。

 それでも、体育館では、ほとんどの生徒が腰を下ろしていて、ぼくのクラスは久野さんだけが立ち上がっていた。しかも、ものすごくイライラした顔でキョロキョロしている。

 ぼくは慌てて久野さんの近くまで駆け寄り、「ごめん」と手を合わせた。

 そそくさと自分の場所に腰を下ろす。


「勇気、すげえよな」

「今回の全中行き、ほとんど勇気のおかげらしいじゃん」

「マジかよ!」

「ねえ、いまの聞いた? 三津谷くんて、やっぱりすごいね」

「ほんと、カッコいいよね~」


 周りは勇気くんのことで持ちきりだった。

 しかし、ぼくはだれの会話にも加わらず、体育館の床を見つめていた。

 まずマイクテストの声があり、壮行会はおごそかに始まった。

 ブラスバンドの演奏に合わせ、野球部の人たちが壇上へ上がる。ステージに用意されていた椅子に、端から順に座っていった。

 勇気くんはすぐに見つかった。

 ユニフォームでいるのかと思ったら、全員が制服だった。その首にはメダルがかかっている。


「まずは校長先生からのお言葉です」


 進行役である教頭先生が言った。

 それを合図に、校長先生はステージに立つと、きょうは端にあるスタンドマイクへ口を近づけた。

 聞こえてくる声は、途中から頭にも入らなくなった。

 勇気くんにばかり、ぼくは視線を送っていた。

 勇気くんは、きのうとおんなじ、真っ黒に日焼けした顔で背筋を伸ばし、校長先生のほうを見ている。

 ぼくらの距離は、それほど長いわけじゃない。なのに、そこには大きな隔たりがある気がしてならなかった。

 その他大勢でも構わないと思っていた。

 でも本当は、あのまなざしをいつでも独り占めしていたい。

 いま、その気持ちがもっと強くなった。

 強くなって……この身をしぼる。

 そこにたくさんの障害があろうとも。

 決して叶うことのない願いだとしても、ぼくはずっと勇気くんのそばにいたい。

 じわりと、目頭が熱くなってきた。

 勝手に感情的になって、こんなところで泣くなんて、バカにもほどがある。

 ぼくは、立てた膝に顔をうずめ、涙をこらえた。頭のどこかでは、そんな自分を笑ってもいた。

 そのときだった。


「人夢」


 どこからか、勇気くんの声が聞こえた。

 目をパチパチさせながら、ぼくはゆっくりと顔を上げた。

 まだ壮行会は終わっていない。同じ雰囲気のままの体育館だ。

 そこで勇気くんがぼくを呼ぶわけもないから、あれは空耳だったんだろうと肩を落とした。

 だけど、なにげなく壇上に目をやって、ぼくは息を呑んだ。

 心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。勇気くんが、じっとこっちを見ていたんだ。

 自然と、ぼくたちのあいだに線がつながれる。

 ──隔たりがなんだ。

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