車内ではたくさんしゃべってくれた勇気くんも、いまはぼくと同じ、ぱったりと静かになった。

 不意に勇気くんが立ち止まった。

 ぼくもつられて足を止める。

 でも、勇気くんはしばらくなにも言わなかった。

 ぼくは急に心細くなって、その口を急かすように見上げた。


「あの」

「人夢さ、祭りの日──」


 ぼくは、「えっ」と身を引く。

 まさかここで、勇気くんの口から祭りという言葉が聞けるとは思ってもいなかった。


「健と見に行くんだってな」

「……」

「おれも一緒に行けたらよかったんだけど」


 もしかしたら、「一緒に行こう」と言われるのかもと思った。けど、その期待はもろくも崩れ去った。

 ぼくは精いっぱいの笑みを作る。


「わかってるよ。健ちゃんも言ってた。勇気くんにはお祭りに行く相手がちゃんといるって。だったら、二人で行こうかって健ちゃんと話してて……」


 決して見栄を張ったわけじゃなかった。

 変な嘘が出てしまっただけだ。健ちゃんと行くと、まだ決めたわけじゃないのに。

 なぜか勇気くんの顔は見れず、ぼくは一方的に別れを告げると、我が家まで全速力で走った。




 荒くなる呼吸をなんとか落ち着かせ、玄関の戸を開ける。すると、見慣れない靴が二足も置いてあるのに気づいた。

 やけにきれいな革靴だった。ぼくは、お客様が来ているんだととっさに思い、そろそろと廊下へ上がった。

 差し足で台所へ入る。

 善之さんの声が居間から聞こえて、ぼくはぴたっと足を止めた。


「──てことはなにか。それはまだ豪には言うなってことかよ?」


 快活な善之さんには珍しく、いらいらしているような尖った声だった。

 だれと話をしているのかはわからない。けれど、聞いてはいけないことだと即座に悟って、ぼくはきびすを返した。

 でも、次に聞こえてきた言葉に全身が釘づけになった。


「俺は、その次郎の本当のことを、豪にも教えるべきだと思う」

「おい」


 すると、ぼくの正面から声がかかり、同時に二の腕を引っ張られた。


「お兄ちゃん……」

「そんなとこでなにしてんだ?」


 不審そうにぼくを見下ろしたあと、お兄ちゃんは居間のほうへも視線をやった。

 ぼくは思わず大きな声を出した。


「た、ただいま!」


 そして、お兄ちゃんを振り切り、流し台へ向かう。なにも聞かなかったとごまかすように手をごしごし洗った。


「なんだよ。やっぱ怒ってんのか?」


 手をすすいでいると、すぐ後ろでお兄ちゃんのため息が聞こえた。


「え?」

「だからさ。朝の……」


 前髪を掻き上げ、面倒くさそうに言葉をにごす。

 そんなお兄ちゃんの向こうに、一清さんと広美さんの姿を見た。

 二人は居間から出てきたみたいだった。

 ぼくが視線をずらすと、それに気づいたお兄ちゃんは振り返った。


「おう、おかえり。見たことねえ靴が玄関にあったから、だれか来てんのかと思ってたけど、兄貴と広美のだったんだな」

「……あ、ああ」


 お兄ちゃんの様子を窺うように目を動かし、一清さんと広美さんは顔を見合わせた。明らかに安堵の表情を浮かべている。

 その二人のやりとりに、ぼくは引っかかるものがあったけれど、とりあえずお兄ちゃんがあの会話に気づいてなくてほっとした。


「急に出かけることになって悪かったな。人夢」


 上着は脱いでるものの、まだ喪服姿の一清さんは、黒のネクタイを取りながらぼくに歩み寄った。


「ううん。大丈夫だよ」

「なにか変わったことはなかったか?」


 うんと返事をしかけて、ぼくはあることを思い出した。

 広美さんと話をしているお兄ちゃんをちらっと見た。途端に、ものすごい形相で睨まれた。

 ぼくは横目で一清さんを見上げる。


「なるほど。あいつはやっぱりなにもしでかさなかったわけか」


 一清さんはため息まじりに言うと、お兄ちゃんの首根っこを捕らえて、居間に押し込めた。

 それと入れ代わるようにして善之さんがやってきた。

 呆れ笑いを浮かべながら戸を閉める。


「豪のやつ、今度はなにやらかしたんだ? 兄貴がすげえ顔してたけど」

「ほら、いつものあれだ。兄貴が好きで好きで仕方がないから、逆に困らせたいってやつ」

「やめろよ、広美~。マジならそれ、全然笑えねえから」


 と言いつつ、善之さんは豪快に笑った。広美さんも声に出して笑い、そして、きょとんとなっていたぼくに声をかけた。


「人夢。きょうの夕飯は焼き肉でも食いに行こうって兄貴が言ってたから、お前も出かける準備して来いよ」


 あまり焼き肉の気分じゃなかったけど、ぼくは流れで頷いた。

 ときどき厳しい声音がする居間を見やり、お兄ちゃんに悪いことしたかなと、ちょっとだけ思った。

 お兄ちゃんはなんだかんだ、お兄さんたちに頭が上がらない。

 それなのに守りごとを破ったり、刃向かったりするのは、お兄ちゃんがあまのじゃくであるのと、広美さんの言ったことがあながち間違いではないからだと思った。

 お兄ちゃんは結局、お兄さんたちが大好きでしょうがないんだ。大好きで大好きで仕方ないから、つい困らせてしまう。


「次郎の本当のことを──」


 善之さんがさっき口にしていた言葉がよぎった。

 なにが「本当のこと」なのか、ぼくにはわかりようもない。ただ、ああいうこそこそした感じは、お兄さんたちらしくないと思った。

 だからこそ、秘密にしなきゃならないのかもしれないし、触れちゃいけないことなのかもしれない。


「次郎さん……か」


 ぼくは、あ、と声を上げた。

 思いのほか大きくなってしまった気がして、慌てて口を押さえた。

 どんな顔だったかは思い出せない。どんな声だったのかも。

 でも、ぼくはたしかに、その人を「ジローちゃん」と呼んでいた。

 もちろん、次郎さんとは関係ない人だと思う。よくある名前だし。

 突如として頭に浮かんできた思い出だった。ぼくは小さいころ、お父さんの知り合いだという男の人を、ジローちゃんと呼んでいた。


「兄貴と豪は時間かかりそうだから、俺たちは先に行こう」


 その記憶をたぐるのにがんばっていたら、二人ぶんの足音が後ろから迫ってきた。

 いつもの焼き肉屋さんへ向かう道でも、一清さんとお兄ちゃんと合流した店内でも、ぼくの頭の隅には、つねに「ジローちゃん」が引っかかっていた。




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