三
「早く。おれのなくなりそうだから」
「……うん」
ぼくがビニールをはがそうとすると、鹿たちの視線は一気に集まった。
それにもまごつくこの手を見兼ね、勇気くんが手伝ってくれる。
爪の白さが目立つ指先がぼくに触れるたび、緊張や焦りとは違うどきどきが胸を突っついた。
ぼくは、鹿にせんべいをあげながら、その感触ばかりを追う。
「はい、おしまい」
最後の一枚をあげ終えて、勇気くんは両手を振る。
鹿たちは満足してくれたのか、それぞれの場所へ散らばっていく。
ぼくらも神社に向け歩き出した。
ぼくは勇気くんの後ろで、さっきのシーンを回想しては、自分の手を見つめた。この手より大きく、ところどころ「まめ」も確認できた。
当たり前だけど、お兄さんたちが触れても、こんなふうにどきどきすることはなかった。
「本殿はこの道なりだな」
園内の案内板を見つけ、ぼくらは立ち止まった。
勇気くんは地図の上を指さし、ぐいと視線を下げる。真っ直ぐにぼくを見た。
「もう少し歩くけど平気か?」
「平気だよ」
気づかって言ってくれたのだろうけど、ちょっとむっとなってしまった。
ぼくは先に歩き始め、早足にもする。
きょうは死ぬほど暑いってわけじゃないし、そんなに歩いてもないのに「平気か」だなんて、勇気くんにはよほど情けないやつに見えてるのかと思った。
足元が土から砂利になる。
一本一本、広く植えられていた松や梅、さまざまな草木もところ狭しと並ぶようになって、そこかしこには石灯籠も顔を覗かせている。
やがて朱色のお社が見えてきた。
門をくぐって境内に入り、まず見つけたのは、おみくじ売り場。後ろを歩いていた勇気くんに声をかけ、ぼくはそこまで走っていった。
結果は大吉だった。
一方、末吉を引いた勇気くんは、ビミョーと笑っていた。
おみくじに書かれてあることを交互に読んで、近くの木へ向かう。
「人夢のもこっちに結べよ。上のほうがご利益あるかもしれないから」
目線の高さにあった枝に結ぼうとしたら、勇気くんがそう言った。少し高いところへ、一緒にくくりつけてくれる。
そのとき、ふと気づいた。
あの違和感が、晴れていく。
「もしかして……背伸びた?」
おみくじ売り場をあとにし、お社へ向かおうと足を出したところで、訊いた。
たしか、初めて会ったときは、そんなに差はなかったはずだ。それなのにいまは、ぼくの目線の高さに勇気くんの鼻がある。
お兄さんたちを始め、ぼくの周りは背の高い人ばかりで、いつも見上げているから、勇気くんが大きくなっていたことに気づけなかったんだ。
正直、声変わりのことといい、ちょっとショックだった。
「人夢だってそのうち伸びるって」
ぼくが無言でいたら、勇気くんはそう言ってくれた。肩をぽんぽんと叩いていく。
その笑顔にも、行動の一つ一つにも、ぼくは敏感に反応し始めていた。
足が止まる。
ぼくたちの距離がどんどんと広がった。
「人夢!」
すかさず振り返った勇気くんがぼくを呼ぶ。
たったそれだけの、しごく普通なことなのに、このときのぼくはとてもうれしかった。
勇気くんは人気者だ。みんなからも頼りにされている。
その大勢の一人でしかないぼくだけれど、いまだけは独り占めできている感じがした。
もちろん、だからなにがどうなるわけでもない。ただただうれしかったんだ。
「それにしても人夢さ、ずいぶん長いこと手を合わせてたな」
参拝を終えて公園に戻ったところで、ぼくたちは少し休憩することにした。
売店でジュースを買い、木陰のベンチを見つけて並んで座った。
「ここまで来たんだから、やっぱり、お願いしたいことはなるべく全部しとかないと」
勇気くんは白い歯を見せて笑い、前かがみになった。キャップを被り直す。
ぼくはその背中を目に入れて、電話での会話を思い出した。
「野球のこと、勇気くんはお願いしたんだよね? 勝負事の神様もいるって言ってたし」
勇気くんは前だけを見ていて、すぐには頷かなかった。
「……まあ、それもあるかな」
「え?」
「どっちかっつうと、野球は神頼みじゃなく、自分の力を信じたい。先輩を差し置いて投げさせてもらってるから」
体を起こし、ゆっくりとぼくを見る。
「本当のお願いはヒミツ」
勇気くんはコーラを飲み干した。おもむろに立ち上がる。
缶を捨てに分別ダストへ行ったのだとわかり、ぼくは慌てて自分の紅茶に口をつけた。
「そんなに一気に飲まなくても置いてったりしないから大丈夫だよ」
ベンチへ戻ってきた勇気くんはくすくす笑いながら腰を下ろした。デニムのポケットに両手を突っ込んで、ベンチに背をもたせかける。
「さてと。……あ、人夢んとこは門限とかある?」
ちょっとまだ残っている紅茶から口を離し、ぼくは首を横に振った。
「はっきりとした時間は決まってないけど、七時くらいまでには帰っておいたほうがいいかな……」
「じゃあ──」
と、勇気くんは腕時計を見た。
帰りのバスの時間はすべて頭に入っているらしく、指で文字盤を小突いて、ぶつぶつともらしていた。
「もう十分くらいしたら出よう」
「うん」
ぼくは最後の一口を飲んで頷いた。
あとは帰るだけって、なんだかさみしいけれど、移動に一時間以上もかかったから、ここでそんなにゆっくりもしていられない。
ぼくらはベンチから離れると、ところどころにいる鹿に声をかけながら公園を出た。
帰りのバスではぼくだけが座った。ほんとは、勇気くんも座っていたんだけど、途中で乗ってきた妊婦さんに席を譲った。
バスを降り、待ち合わせ場所でもあったいつもの公園へ向かう。
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