「早く。おれのなくなりそうだから」

「……うん」


 ぼくがビニールをはがそうとすると、鹿たちの視線は一気に集まった。

 それにもまごつくこの手を見兼ね、勇気くんが手伝ってくれる。

 爪の白さが目立つ指先がぼくに触れるたび、緊張や焦りとは違うどきどきが胸を突っついた。

 ぼくは、鹿にせんべいをあげながら、その感触ばかりを追う。


「はい、おしまい」


 最後の一枚をあげ終えて、勇気くんは両手を振る。

 鹿たちは満足してくれたのか、それぞれの場所へ散らばっていく。

 ぼくらも神社に向け歩き出した。

 ぼくは勇気くんの後ろで、さっきのシーンを回想しては、自分の手を見つめた。この手より大きく、ところどころ「まめ」も確認できた。

 当たり前だけど、お兄さんたちが触れても、こんなふうにどきどきすることはなかった。


「本殿はこの道なりだな」


 園内の案内板を見つけ、ぼくらは立ち止まった。

 勇気くんは地図の上を指さし、ぐいと視線を下げる。真っ直ぐにぼくを見た。


「もう少し歩くけど平気か?」

「平気だよ」


 気づかって言ってくれたのだろうけど、ちょっとむっとなってしまった。

 ぼくは先に歩き始め、早足にもする。

 きょうは死ぬほど暑いってわけじゃないし、そんなに歩いてもないのに「平気か」だなんて、勇気くんにはよほど情けないやつに見えてるのかと思った。

 足元が土から砂利になる。

 一本一本、広く植えられていた松や梅、さまざまな草木もところ狭しと並ぶようになって、そこかしこには石灯籠も顔を覗かせている。

 やがて朱色のお社が見えてきた。

 門をくぐって境内に入り、まず見つけたのは、おみくじ売り場。後ろを歩いていた勇気くんに声をかけ、ぼくはそこまで走っていった。

 結果は大吉だった。

 一方、末吉を引いた勇気くんは、ビミョーと笑っていた。

 おみくじに書かれてあることを交互に読んで、近くの木へ向かう。


「人夢のもこっちに結べよ。上のほうがご利益あるかもしれないから」


 目線の高さにあった枝に結ぼうとしたら、勇気くんがそう言った。少し高いところへ、一緒にくくりつけてくれる。

 そのとき、ふと気づいた。

 あの違和感が、晴れていく。


「もしかして……背伸びた?」


 おみくじ売り場をあとにし、お社へ向かおうと足を出したところで、訊いた。

 たしか、初めて会ったときは、そんなに差はなかったはずだ。それなのにいまは、ぼくの目線の高さに勇気くんの鼻がある。

 お兄さんたちを始め、ぼくの周りは背の高い人ばかりで、いつも見上げているから、勇気くんが大きくなっていたことに気づけなかったんだ。

 正直、声変わりのことといい、ちょっとショックだった。


「人夢だってそのうち伸びるって」


 ぼくが無言でいたら、勇気くんはそう言ってくれた。肩をぽんぽんと叩いていく。

 その笑顔にも、行動の一つ一つにも、ぼくは敏感に反応し始めていた。

 足が止まる。

 ぼくたちの距離がどんどんと広がった。


「人夢!」


 すかさず振り返った勇気くんがぼくを呼ぶ。

 たったそれだけの、しごく普通なことなのに、このときのぼくはとてもうれしかった。

 勇気くんは人気者だ。みんなからも頼りにされている。

 その大勢の一人でしかないぼくだけれど、いまだけは独り占めできている感じがした。

 もちろん、だからなにがどうなるわけでもない。ただただうれしかったんだ。





「それにしても人夢さ、ずいぶん長いこと手を合わせてたな」


 参拝を終えて公園に戻ったところで、ぼくたちは少し休憩することにした。

 売店でジュースを買い、木陰のベンチを見つけて並んで座った。


「ここまで来たんだから、やっぱり、お願いしたいことはなるべく全部しとかないと」


 勇気くんは白い歯を見せて笑い、前かがみになった。キャップを被り直す。

 ぼくはその背中を目に入れて、電話での会話を思い出した。


「野球のこと、勇気くんはお願いしたんだよね? 勝負事の神様もいるって言ってたし」


 勇気くんは前だけを見ていて、すぐには頷かなかった。


「……まあ、それもあるかな」

「え?」

「どっちかっつうと、野球は神頼みじゃなく、自分の力を信じたい。先輩を差し置いて投げさせてもらってるから」


 体を起こし、ゆっくりとぼくを見る。


「本当のお願いはヒミツ」


 勇気くんはコーラを飲み干した。おもむろに立ち上がる。

 缶を捨てに分別ダストへ行ったのだとわかり、ぼくは慌てて自分の紅茶に口をつけた。


「そんなに一気に飲まなくても置いてったりしないから大丈夫だよ」


 ベンチへ戻ってきた勇気くんはくすくす笑いながら腰を下ろした。デニムのポケットに両手を突っ込んで、ベンチに背をもたせかける。


「さてと。……あ、人夢んとこは門限とかある?」


 ちょっとまだ残っている紅茶から口を離し、ぼくは首を横に振った。


「はっきりとした時間は決まってないけど、七時くらいまでには帰っておいたほうがいいかな……」

「じゃあ──」


 と、勇気くんは腕時計を見た。

 帰りのバスの時間はすべて頭に入っているらしく、指で文字盤を小突いて、ぶつぶつともらしていた。


「もう十分くらいしたら出よう」

「うん」


 ぼくは最後の一口を飲んで頷いた。

 あとは帰るだけって、なんだかさみしいけれど、移動に一時間以上もかかったから、ここでそんなにゆっくりもしていられない。

 ぼくらはベンチから離れると、ところどころにいる鹿に声をかけながら公園を出た。

 帰りのバスではぼくだけが座った。ほんとは、勇気くんも座っていたんだけど、途中で乗ってきた妊婦さんに席を譲った。

 バスを降り、待ち合わせ場所でもあったいつもの公園へ向かう。

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