会うといっても、そこの公園か、どっちかの家でおしゃべりするぐらいだろうと思っていた。


「じつはおれ、行きたいところがあるんだ。つき合ってくれるか?」

「……行きたいところ?」

「平野神社。人夢も知ってるだろ? あそこ、勝負事の神様もいるらしくて、一回行ってみたかったんだ」

「……」

「ちょっと遠いけど、大丈夫。お金もバス代ぐらいで、そんなにかからないから。あ、おれさ、いろいろ調べたんだけど……」


 最後のほうは、ほとんど耳に入ってこなかった。

 ぼくたちだけであの神社へ行くのって、かなりの大冒険だ。ここからは距離もあるし、いっぱい人もいるだろうし。結構な広さがあるとも聞く。


「人夢はバス平気だよな?」

「うん……」

「あ、でもだめか。それよりも、まずお兄さんに確認しなきゃだもんな」


 なんとなく尻込みしていたのが声の調子でバレてしまったみたいだ。

 急に冷静になった勇気くんは、残念そうに言った。


「ぜんぜん大丈夫」


 電話なのに、ぼくは慌てて首を横に振った。


「マジで? ……じゃあ、あした。いつもの公園に十三時で」

「うん。わかった」


 受話器を置いてしまえば、戸惑いはどこかに飛んで、あしたが待ち遠しくなった。

 はやる気持ちを落ち着かせ、ぼくは台所へ戻る。善之さんがいないのを確認して、鼻歌まじりで冷蔵庫を開けた。

 夏休みに入ってから、お兄さんたちは、ぼくが期待した通り、「あて」にしてくれるようになった。夕ご飯作りもときどき任せられる。

 ここへ来る前から、家事は一通りやっていた。お母さんは会社勤めで忙しく、ぼくも手伝うようになったんだ。

 ただ、いままでは、自分の好きなものを好きなようにしか作らなかった。だれかのために作り、それを美味しいとがっついてもらうことが、こんなにもうれしいとは知らなかった。

 お父さんや、篠原のお義父さんが料理人をやってきた気持ちが、ちょっぴりわかったような気もする。将来、ぼくもそういう道へ進むのもいいなと思った。

 お父さんの影響もあって、パティシエという職業を意識したことはある。だけど、好きなことを仕事にする難しさも見せられていた気がした。


「──人夢。言うの忘れてたんだけどさ」


 善之さんがそう言いながら台所へ入ってきた。

 野菜室を探っていた手を止め、ぼくは顔を上げた。


「兄貴と広美、今夜は帰ってこねえぞ」

「え? ……仕事?」


 お盆前のこの時期は忙しくなると、たしかに一清さんはもらしていた。残業も増えると。

 だけどぼくは、家に帰れないほど忙しくなるとは思ってもいなかった。

 静かに野菜室を閉める。


「いや、仕事でじゃねえんだわ。兄貴が言うには、昼前に親父が電話してきて、むかし世話になった人が亡くなったから、自分の代わりに、兄貴と広美で通夜と葬式に出てくれと言ったらしいんだ」


 お通夜。

 お葬式。

 ……ぼくはまだ、この言葉に敏感に反応してしまう。

 どういう表情をしていいのかわからず、視線をさまよわせた。


「式場は遠いのかな……。帰ってこないなら」

「たぶんな。場所は詳しく聞かなかったけど、葬式にも出るんだし、いっそ向こうでホテル取るかって」

「そっか……」


 ぼくは頷いたあと、善之さんの格好が一変してしまっていることに気づいた。

 善之さんは、お兄ちゃんと同じで、夏限定の「ズボンのみ派」だ。そして、自分の部屋では「パンイチ」になる。

 それが、いまはTシャツを着ていて、下はスウェットからデニムになっている。


「善之さんも出かけるの?」

「三津谷のお陰でさ、OBやら保護者が集まって祝勝会をやることになったんだ。たぶん遅くなると思う」

「わかった。でも、お酒はほどほどにね」


 お兄さんたちの中で、善之さんは一番の飲んべえだ。元が強いというのもあるんだろうけど、大好きだから歯止めが効かなくなるのもあると思う。

 とにかく、ハンパない量を飲むらしい。


「ああ、それと。豪は友だちと外で食べてくるって」


 善之さんは台所を出かけて、ぱっと振り返った。よろしく、と残して、玄関へ向かう。

 ぼくは拍子抜けしたような感じになって、がくんと膝を曲げた。自分だけなら張り切る必要もないと、冷凍庫をあさることにした。





「高校を卒業するまでは外泊禁止。その日のうちに必ず帰ってくること」


 我が家の決まりに、こういうものがある。

 ぼくが思うに、たとえ一清さんや広美さんがいなくても──いや、いないときにこそ頭に置いとかなければいけないことだ。

 それなのに、真夜中になったいまも、目の前の玄関は静かなまま。お兄ちゃんの姿は一向に現れなかった。

 ぼくは上がりがまちで立ち尽くし、呟いた。


「遅い。……遅すぎる」


 口を尖らせる。

 一清さんが帰ってきたら、このことは絶対に報告しようと思った。

 ほくは鍵を締め、電気は点けたままにして、部屋に戻った。

 寝に入る前、昼間見た男の人のことを思い出す。

 どこかで会った気はするんだ。

 健ちゃんは、洋菓子屋さんのアルバイトじゃないかと言っていた。でも、ぼくは、あの人をお店で見たことがない。

 大学生くらいにも見える。もしかしたら、高校生なのかもしれない。それぐらい、ぼくには若く見えた。

 あの人のことを考え巡らせているうちに、ぼくはうつらうつらとなりかけた。

 眠りに入ろうとするわずかな隙間。いろいろとたぐっていた思い出の中に、お父さんとは違う、だれかの大きな背中を見つけた。

 その横には、笑顔のお父さんがいる。

 ──ふと、目が覚めた。

 部屋はまだ暗い。常夜灯のオレンジが目に入った。

 まばたきを繰り返してなんとか時計を読もうとしたとき、ドアの向こうで物音がした。

 お兄ちゃんが帰ってきたんだと思い、文句の一つでも投げようと、ベッドを降りた。

 ぼくはドアを開け、すぐに息を呑んだ。

 見たこともない人が立っている……。

 向こうもびっくり顔だったけど、ぼくはそれ以上にびっくりして、思いきりドアを閉めた。

 始めはお兄ちゃんかと思った。善之さんでもなかった。

 だれだったんだろうと少し冷静になってみても、掴んでいるノブをもう一度回す勇気はなかった。

 それよりも、季節がら、見てはいけない「モノ」だったような気がしてきて、勢いよくベッドに飛び込んだ。

 タオルケットを被る。

 ……出た!

 背はかなり高かった。お兄さんたちに遜色ないくらい。

 そして、男の人だった。向かって右の頬にほくろがあって、一瞬合わさった視線が鋭く、いかにも「ソレ」らしかった。

 ぼくはタオルケットに包まり、なんまんだぶを唱え続けた。




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