あれから一カ月あまり。季節は盛夏に変わっていたある日のこと。

 我が家の柿木では、セミがこぞって鳴いていて、その下でロクちゃんが涼んでいる。

 うるさくないのかな?

 ぼくは庭を見るたびに首を傾げていたけれど、きっとロクちゃんは、涼しさのほうを選んだんだといまわかった。

 この暑さだもの。それとも、もともと気にしない質(タチ)なのかな?


「人夢、そろそろ行くぞ」

「あ、はいっ」


 善之さんに呼ばれて、ぼくは慌てて玄関へ向かった。

 夏休みに入って一週間がたつ。

 きょうは、善之さんの車で、お兄ちゃんも一緒に、家から少し離れた大型スーパーに買い出しへ行くことになっていた。

 動き出した車の、バックミラー越しに善之さんと目が合った。


「どうした。きょうはなんだか元気ねえな」


 急いで作った笑顔で、ぼくは応える。


「そんなことないよ」

「善之、あれだよ。こいつ、ゆうべアイス食いすぎて腹の調子が悪いんだよ」


 と、助手席のお兄ちゃんが口を挟んだ。


「違うし」

「それなら、無理について来なくても家で休んでてよかったのに」

「ホント、おとなしく寝てればいいっつうのに」

「だから違うって。ぼくは、ちゃんと一個でやめたし、お腹も壊してないから」


 抗議を示すように、目の前にある助手席のヘッドレストを叩いた。

 それから、窓の外へ視界を移し、ため息を吐く。

 けど、いまのため息は、お兄ちゃんに対して出したものじゃない。

 善之さんがさっき言っていた「元気ない」が、あながち間違ってないからだ。

 ぼくは、いますごく悩んでいることがある。……いや、正しくは迷っていることだ。

 人づて……といっても健ちゃんだけど、夏休みに入ってからの勇気くんは、野球部の活動がとても忙しく、帰りも遅いらしいと聞いていた。

 夏休みに入ったら、いっぱい遊びたいと思っていたのに、それだと、すごく迷惑になる気がして、なかなか誘えない。

 でも、話をするだけでもいいから、会いたいんだ。


「あれ……。善之、あいつ」


 お兄ちゃんのそんな声に気づき、ぼくは前を見た。

 善之さんの車は赤信号にひっかかっている。

 前の二人は、そろって左手へ顔をやっていた。


「おお、やってんな」


 善之さんがにわかに目を輝かせ、笑みを深めた。

 その視線の先は、直進車用の道路を挟んでとなりの、高い防護ネットが張られてあるグラウンドだった。

 あれは市営の野球場だ。

 中学生か、高校生か。野球の試合を行っている。


「お前んとこのエースが投げてるぞ。人夢」


 善之さんがそう話を振ってきたけど、ぼくには読めなかった。

 すると、お兄ちゃんが呟くように言う。


「なんでだろうな。マウンドに立ってるあいつはマジ格好いい。ムカつくけど」

「まあな。なにせ、全中への期待のエースだからな」

「チビのくせにさ」


 お兄ちゃんは口惜しげに言った。それでいて、シートと窓の隙間から見える横顔に笑みがあるから不思議だ。

 ぼくは、となりに止まっている車と車のあいだから、グラウンドにいる人たちを眺めた。

 その中でも一際ぼくの目を引いたのは、少し盛り上がった山に立ちボールを投げている人。ピッチャーだ。

 こっちへ向かって投げる格好だけど、野球帽のつばが影を作っていて、目元はわからない。

 力強いピッチングフォームのあと、しなやかに腕が振られる。前屈みだった体が戻り、見覚えのある字が、ユニフォームの胸に見えた。

 ぼくの中学の名前だった。

 そのとき、前にたった一度だけ、学校のグラウンドで見かけた人が、ぼくの頭に浮かんだ。あれから、それらしい人を見つけられなかったから、幻だったんじゃないかと疑ったぐらいだ。


「ねえ、善之さん。あそこでボール投げてる人、うちの学校の三年生じゃない?」


 窓に釘づけにされたまま、ぼくは訊いた。

 しかし、なぜか車内に沈黙が流れる。

 そこへ、ぼくらの車の後ろから激しいクラクションが鳴った。


「おっ、やべえ」


 善之さんが慌ててハンドルを握る。

 車がまた動き出した。

 マウンドにいるあの人も、徐々に位置が変わって、そして遠くなっていく。


「……お前、あいつからなにも聞いてないのかよ」


 お兄ちゃんがぼくに目をくれた。


「あいつ……って?」

「三津谷に決まってんだろ。野球の話とかしねえのかよ」

「人夢、さっきのピッチャーは三津谷なんだよ」


 善之さんが苦笑を混じえ、補足するように言った。

 ぼくはびっくりして、再び後ろを見た。

 勇気くんが野球部にいるのはもちろん知っている。ただ、あのとき見たグラウンドの人がそうだとは思ってもみなかった。

 だって、あのときも、勇気くんはなにも言ってくれなかったんだ。

 鼓動が、なぜだか早くなった。

 ただでさえ、ギラギラの太陽でまぶしい景色が、もっと輝きを増したように感じた。

 ぼくは目を細め、流れゆく町の風景をやり過ごす。それから、ただひたすら、勇気くんのあの笑顔を思い描いていた。




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