三
「それにね。ぼくはわざと三津谷さんて呼んでたわけじゃないよ。ほんと、無意識だったんだ。お兄さんとのことだって、健ちゃんに相談しようと思ってしてたわけじゃないし」
すると、勇気くんが目を丸くした。
「相談してたんじゃねえの?」
「うん」
「え? じゃ、じゃあ、ゆうべの公園でのことは──」
そこまで言って、勇気くんは口を押さえた。
「いや、ごめん。おれ、てっきり……」
今度は顔を赤くしている。ぼくの言葉ひとつひとつに、勇気くんはくるくると表情を変えている。
それがとても嬉しくて、ぼくは声に出して笑ってしまった。
「今度、なにかあったらすぐに相談するね」
「ああ」
「これでもう、ぼくたちはれっきとした友だちだね」
勇気くんが、にっこりと笑う。
「というか、おれは出会ったときから、そのつもりだったけど?」
ぼくは頷いた。
やっぱり、勇気くんは思った通りの人だ。心を開けないほうが申しわけないくらい人懐っこくて、ストレートで、かっこいい。
そんな勇気くんに自分の気持ちを伝えることができて、ぼくはうれしかった。ほっとした。
息をついたとき、ふと一清さんを思い出した。
その姿を探して振り返ってみたら、見覚えのある紫色の車がハザードランプを灯して、少し遠くの路肩に停まっていた。
「ごめん。ぼく、そろそろ……」
「うん。そうだな」
「……あれ? 勇気くん、自転車は?」
いま気がついたんだけれど、その傍らには、自転車の影も形もない。
「ああ。あっちに……」
と、車道を挟んで向こうの歩道を、勇気くんは指さした。一台の自転車が倒れている。
「人夢の声が聞こえたと思って見たら、お前はもう背を向けてて……。自転車投げて、急いでこっちに渡ったんだ」
照れくさそうに坊主頭のてっぺんを掻いている。なにかに気づいたように、その手を上げた。
「じゃあ、またあした。学校でな」
「うん。ばいばい」
勇気くんはキョロキョロしながら車道を横切って、起こした自転車に跨った。
ぼくは手を振り、来た道を戻っていく背中を見送った。
車まで走っていくと、ドアがタイミングよく開いた。
一清さんの手が引っ込むのを見届け、ぼくは助手席に腰を下ろした。シートベルトをしめる。
「すみません。遅くなって……」
「いや。待っているあいだに考えてみたんだが──」
「え?」
「さっきの家事分担の話だ」
ぼくは、なんとなく背筋を伸ばしてみる。
「うちは、兄貴が弟の面倒を見るのは当たり前で、俺もだれに言われたわけじゃなく、自然と家のことをするようになった。それでも親父は、学生のうちは家のことなんか気にしないで、思いっきり外で遊んでこいと言っていた。本当は、猫の手も借りたいくらい大変だったくせに」
「……」
「まあ、だから、親父がそう言っていたのは最初だけで、それからは結局、なし崩し的に俺や広美をあてにしていったってわけで」
一清さんは話しながら、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
「つまり、俺がなにを言いたいかっていうと──」
「そのうち、ぼくもあてにしてくれるってことですよね」
嬉々として、ぼくは答えた。
それ以上、一清さんはなにも言わなかったけど、ぼくとしては満足だった。
一清さんも広美さんも忙しいし、なかなか帰りが遅い。その当時のお義父さんとまではいかなくても、大変な状況には違いない。
たぶん、なし崩し的にあてにしてくれると、期待している。
車窓に次々と飛び込んでくるカラフルな灯りを眺めながら、ぼくは昔のことを思い出した。
小学校の低学年のときだ。ぼくが覚えている限り、お父さんが初めて約束を破った日のこと。
その日は日曜日で、みんなで動物園に行くことになっていた。
でも、お父さんは急に仕事になって、行けなくなったんだ。
お父さんはレストランでパティシエをしていたから、日曜日が休みになるなんてことは滅多にない。だから、ぼくはすごく楽しみにしていた。
『おとうさんのうそつき! いっしょにゾウさんみるってやくそくしたのにっ』
『ごめんな、人夢』
『人夢、お父さんは仕事なんだから、仕方ないでしょう? そんなわがまま言わないの』
『やだっ。うそつきっ。そんなうそつきなおとうさんなんかだいきらいっ』
悲しそうな、困ったような、あのときのお父さんの顔……。
けど、ぼくは子どもながらにちゃんと理解していた。
お父さんが行かなければレストランが大変になること。
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