デイブレイク



「人夢、俺になにか言いたいことがあるんだって?」


 先生のアパートを出て、路上に停めてきたという一清さんの車に向かう途中、唐突に切り出された。

 雨はすっかり上がり、雲の切れ間から、薄いまたたきがいくつか見える。


「え?」

「さっき小林さんが言っていた。俺に話したいことがあるって」


 やがて見えてきたボルドーのヴェルファイア。

 遠隔操作でドアロックを解除すると、一清さんは先に乗り込んだ。

 助手席側が塀にギリギリだったから、車を少し動かした。


「えっと……」

「遠慮なんかするな。俺たちは一つ屋根の下で暮らす兄弟なんだ。気になることがあるなら、はっきり言え」


 ぼくがシートベルトをするのを確認してから、一清さんはアクセルを踏み込んだ。

 大通りに出る。


「あの……。ぼくにも、なにか家のことをお手伝いさせてください」


 一清さんは、絶えずフロントガラスに向けていた視線を、ぼくにもちらりとくれた。


「え?」

「一清さんや広美さんが仕事で大変なときとか、ぼくも役に立ちたいんです」

「お前はまだ中学生だ。しかも、こっちに転校してきたばかりで、勉強の進み具合とか、みんなと揃えるの大変だろ。もう少しでテストもあるんだ。家の中のことで役に立ちたいとか、そんなのは考えなくていい」


 もちろん、ぼくの境遇を一番に考えて、そう言ってくれたんだと思う。

 うれしいけれど、きょうは引き下がらないと心に決めたんだ。

 ぼくが次の言葉を出そうとしたら、不意に車が止まった。

 赤信号が目に入る。


「正直、俺や広美としては、そうやって手伝ってもらえたら助かるし、ありがたいと思う。でもな……」


 と、一清さんが言い淀んだときだった。

 一台の自転車が、目の前の横断歩道を横切っていった。

 その人物を見て、ぼくは前のめりになる。


「三津谷さん……」


 まだ信号につかまっている車を降り、自転車を追いかけようと、横断歩道へ向かった。

 しかし、ぼくが渡ろうとした瞬間、赤になった。

 仕方なく、こっちの歩道から追いかける。

 どうしても距離は広がる一方だ。向こうへ渡りたくても、車の往来が邪魔してできない。

 ぼくは走りながら叫んだ。

 三津谷さんに気づいてほしくて、ありったけの声で呼んだ。


「三津谷さん!」


 どんどん背中は小さくなっていく。自転車が相手ではどうすることもできない。

 体力のなさにも唇を噛み、それでもぼくは、これまでにないくらいの大声を張り上げた。


「勇気ぃ!」


 ぼくは立ち止まった。

 三津谷さんは自転車を漕ぎ続けている。

 どこへ向かおうとしているのか。急いでるふうにも見えた。

 久野さんに会いにいくのかな……。

 そう考えると、とてつもなくさみしい気持ちになって、ぼくは俯いた。

 その背中に鋭い声が刺さる。


「人夢!」


 一清さんだ。

 振り向いて、ぼくは勢いよく頭を下げた。

 一清さんの顔にありありと怒りの色が見えたからだ。


「たびたびごめんなさい!」

「急に降りたらびっくりするだろ」


 困ったような顔もしていて、来た道へとぼくの背中を押した。


「どうした。だれかいたのか?」


 ぼくは首を振った。

 ほとんど人通りのない道を歩き始める。

 少し進んだところで、いきなり後ろから腕を掴まれた。

 振り返ると、三津谷さんが立っていた。

 びっくりして、声なんか出なかった。

 でも、すぐにほっとなる。……よかった。ぼくの声はちゃんと届いていたんだ。


「人夢──」


 手を離した三津谷さんは、荒い息の中で、無事でよかった、と呟いた。


「無事……って」

「おれ、お前のこと捜してたんだ。豪さんから聞いて」

「え?」

「取り込み中、悪いんだが」


 一清さんの声が降ってきた。

 ぼくは顔を振り上げた。

 本当は、こうして立ち話なんかしている暇はない。早く帰って、豪さんに謝らなきゃなんだ。

 でも……。

 ぼくが口を開きかけたとき、三津谷さんが一清さんに向かって頭を下げた。


「少し、人夢と話す時間をもらえますか?」


 ぼくも一清さんを見上げた。

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