四
「一清だな」
先生はあっさり立ち上がると、リビングを出ていった。
いてもたってもいられなくなったぼくは、先生を追おうとして、しかしドアの前で思いとどまる。
廊下から、二人分の足音が響いてきた。
「ごめんなさい!」
リビングのドアが開かれると同時に、ぼくは勢いよく頭を下げた。
先生はああ言っていたけれど、ぼくの胸の内には最悪の展開もあった。
その衝撃にそなえ、固く目をつむる。
しかし、あの手の平はそっと落ちてきた。ぼくの頭を優しく撫でる。
「すべてのいきさつは小林さんと豪から聞いた。俺は怒ってないから、頭を上げろ」
恐る恐る、一清さんを見上げた。
穏やかな笑みを浮かべている。
やっと、ちょっとだけ安心できた。
それでも、口を真一文字に結んで、素直に喜べないさまを表せば、一清さんがまた頭を撫でた。
「小林さん。すみません。うちの弟がまたお世話になって」
「いやいや、お前の弟の一人や二人。それが俺の役目だし?」
一清さんと小林先生はそう言葉を交わし、なごやかに笑い合った。
ぼくは、もうなにもかも解決したような雰囲気に、首をひねった。
さっき、一清さんは、豪さんからもいきさつを聞いたと言っていた。だったら、豪さんが三津谷さんを殴ったことも耳に入っているはずだ。
小林先生は三津谷さんの担任でもあるから、普通なら、こんなふうに笑顔でいる場合じゃないと思う。
一清さんが、ふとこっちを見た。
「なんだ? 人夢」
「あの、豪さんが三津谷さんを殴ったのって……」
ぼくの言葉を聞いて、小林先生はすぐに眉をひそめた。一清さんに目をやる。
「豪が三津谷を殴った? ……俺は聞いてないぞ」
「違いますよ。小林さん」
ぼくの肩口を掴み、一清さんはしゃがむと、険しい表情で見上げた。
「それはお前の大きな誤解だ。豪は、だれも殴ってない」
途端に、ぼくの頭は真っ白になった。
「殴って……ない? うそ──だって、豪さんの手に傷が……」
「お前は、その傷を見ただけで、あいつが人を殴ったと思ったのか?」
ぼくを真っ直ぐに見据える瞳。そのまなざしに厳しさが増す。心臓をじかに掴まれているような衝撃が走った。
「いいか、人夢。たしかに豪は口が悪いし、わがままなところもある。だが、簡単に他人さまに手を上げるようなやつじゃない。それは俺が一番よく知っているし、俺たちが最も信じてやらなきゃならない部分だ。殴った、殴ってないはあとの話で、疑わしくてもちゃんと相手の言い分を聞いて、それから判断しなきゃいけない。なにも聞かずに決めつけることは、一番してはならないことなんだ」
「……じゃあ、三津谷さんは」
「三津谷の親御さんに連絡してみたが、とくに変わったところはないと言われた」
──豪さんは三津谷さんを殴ってない。三津谷さんも豪さんに殴られてなくて、ケガもしてない。
「……ごめんなさい」
ぼくはただ謝るしかなかった。
うなだれ、顔を上げることもできなかった。
そんなぼくの肩を、一清さんはポンポン叩いて、幾分柔らかくした声で言う。
「間違いはだれにだってある。ちゃんと謝れば、豪も許してくれる」
ぼくはうなだれたまま、首を横に振った。
「だめです……」
「だめ? なにが?」
「豪さんは、ぼくにはもう会いたくないと思っています。弟なんかいらないって……」
たとえそうでも、本当は逃げずに謝らなくちゃいけない。
ぼくが悪いんだから、兄弟であることは消しようもない事実なんだから、これからのためにも謝らなきゃだ。
それはちゃんとわかってる。……頭ではわかってるのに。
「ますますぼくなんか嫌いに……」
深いため息をもらしたあと、一清さんはなにも言わなくなってしまった。
その代わりに小林先生の声がする。
「篠原。きみは肝心なことを忘れている。いいか? いつまでたっても帰ってこないきみを心配して、豪は広美に連絡したんだ。きみに会いたくないと思っているなら、普通は放っておくんじゃないか?」
少しの間を置いて、一清さんも言う。
「……小林さんの言う通りだ、人夢。豪は、お前が嫌いだから邪険に扱っているわけじゃなくて、ただ自分に素直になれないだけなんだ。ずっと待ち望んでいた弟ができた。なのに、いざ目の前にしても、上手く接することかできない。そんなガキみたいな自分が腹立たしい」
ぼくは顔を上げた。
「三津谷を殴ってできたとお前が思った傷……本当はどうしてできたと思う?」
ぼくを覗き込むように、一清さんは上目使いをした。
ぼくは目を合わせ、軽く首を傾げた。
「あいつには口止めされたから、ここだけの話だが、ガレージの壁に八つ当たりしたんだそうだ。すり傷ですんだからよかったものの、骨折でもしたら生活にも影響が出るっていうのに」
「……」
「俺が思うに、お前とのことで三津谷に図星をさされて、一言も返せなかったんだろう。態度がでかい割に、変なところで不器用だからな。……でもな、人夢。あいつはいい兄貴になれると俺は思っているんだ。お前がもう一歩踏み込んでくれたら、あいつもしっかり心を開いてくれると思う」
一清さんは力強く言っていたけど、いまのぼくには、簡単に「はい」と言うことができなかった。
耳の奥で、いつかの広美さんの声が響く。
──本物以上の兄弟。
いまの一清さんの言葉に重ねたら、本当にそういう日がくる感じがして、ぼくはちょっとだけ笑みを乗せた。
そのためにはなにをするべきか。
先生からもらった言葉も胸に収めて、ぼくは小さく頷いた。
「もう大丈夫だな」
一清さんは腰を上げ、それを見た先生が声をかけた。
「一清、ちょっと」
「はい?」
ぼくから離れ、二人でひそひそ話を始める。
小林先生は、ぼくの「誤解」の件を、一清さんに訊いているのだと思う。
それにしても、ずいぶん深刻そうに見える。とはいえ、想像だけで物事を決めるのはよくないと言われたばかりだから、変に勘ぐるのはやめることにした。
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