雨宿り



「まだ帰ってきてないな……」


 先生はそんなことを呟きながら、車をアパートの入り口に横づけした。

 ひとまず降りてと、窓の向こうを指さす。

 言われた通り、ぼくは車を降り、アパートの入り口で先生を待った。

 後ろには階段。それを挟んだ両側にドアがある。子供用の三輪車が置いてあった。

 やがて、傘もささずに先生が走ってきた。スーツの雫を払い、「上だ」と、ぼくの背を押した。

 黒が基調の階段も、それを上りきって見えたドアも、内装も、すべてがピカピカに光っている。


「いま、タオルと着替えを用意するから。ちょっとそこで待ってろ」


 玄関を開け、先生はすぐさま廊下の奥へと消えた。

 ぼくは、そう言われて初めて、自分がかなり濡れていることに気づいた。

 申し訳ないと思っているうちに、先生が戻ってきた。玄関に一番近いところのドアを開ける。

 ぼくは、タオルと着替えを渡され、そこへと押し込められた。

 オレンジ色の照明。ドラム式の洗濯機と、その上には乾燥機がある。横の洗面台に、歯ブラシが二本立っているのが見えた。


「あの、先生」

「サイズが大きいと思うけど、とりあえずはそれで。脱いだものは、その辺に置いといてくれていいから」


 ドアの向こうで先生が言った。

 さすがに着替えは断って帰ろうと思っていたのに、切り出すタイミングを失ってしまったぼくは、呆然と立ちつくした。


「篠原。悪いとか申し訳ないとか、余計なことは考えなくていい。まだ日が浅いとはいえ、きみは俺の教え子なんだ。困っている生徒を、先生が助けるのは当たり前だろう? それは兄弟だって同じだ。たとえ義理であっても、兄貴が弟の面倒を見るのは当たり前なんだ。だから、きみは余計な気を──」


 着信音が聞こえた。

 先生の携帯から鳴ったみたいで、電話に出る声も聞こえた。

 その声が遠ざかっていく。どこかのドアが開け閉めされ、廊下は静かになった。

 着替えるしかない。

 ぼくは、パンツ以外はすべて脱ぎ、先生が用意してくれた服を着た。

 紺色のトレーナーとスラックス。余った袖とズボンの裾をまくっていると、先生の声が飛んできた。


「──篠原? 着替え終わったか?」

「あ、はい」


 先生はドアを開け、ちらっとぼくを確認してから、乾燥機の準備を始めた。


「乾くまで、リビングで待っていなさい。廊下の突き当たりのドアだ」

「はい。あ、先生」


 ぼくは廊下に出かけて、くるっと振り返った。


「なんだ」

「いろいろとありがとうございます。それと──」


 電話を取る前の先生の言葉。

 生徒を思いやってくれる頼もしい先生だと、うれしいところもあったけれど、それとは違う、掘り下げて訊いてみたいこともあった。

 小林先生は、まるで篠原さんちに越してきてからのぼくをどこかで見ていたような言い方をした。

 それとも、やっぱり教師だから、いろいろと知っているのかもしれない。


「すみません。なんでもないです」


 頭を下げ、ぼくはリビングのドアを開けた。

 とてもキレイに片づいている部屋だった。

 家具があまりなかったり、余計な物がほとんどなかったりではなく、すっきりとしている中にも生活感があって、不思議と、他人の家へ来た気がしない。

 黒のレザーソファー、ノートパソコンが乗っているローテーブル。それらと調和されたモノトーンのカーペット。

 大きなテレビの乗っているローボードには、携帯の充電器が二つあった。

 その充電器と、洗面台にあった歯ブラシが、ぼくにはダブって見える。

 よくよく考えてみれば、先生に奥さんがいたって、ちっともおかしくないんだ。


「立ちっぱなしでどうした? ソファーにでも座って待ってればよかったのに」


 先生はリビングに入ると、ソファーの後ろの、ぼくは壁だと思っていた仕切り戸を開けた。

 ダイニングキッチンも、きれいに整頓されている。


「ぼく、やっぱり帰ります」

「まだそんなことを言うのか」

「だって、ぼくがいきなりおじゃましてたら、奥さんに迷惑じゃ……」


 先生は、スーツのボタンを外していた手をぴたりと止めた。


「は? ……奥さん?」

「え?」

「いやいや。俺は結婚してないよ」


 先生は笑いながら、脱いだ上着をハンガーにかけた。それを近くのフックにつるす。


「それより、さっき一清から俺の携帯に電話があった」

「……え。ええ?」


 ぼくは思わず時計を探した。

 ローボードの上で見つけ、針を確認したら、八時を回っていた。

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