二
「こんにちは」
と、三津谷さんは窓口のお姉さんにあいさつをした。
来慣れている感がとてもある。
「人夢、こっち」
「うん……あ、三津谷さん」
窓口の向かいにある昇降口から、コンクリートの階段を上がる。
踊場までは小暗がりだったそこも、上り切ってしまえば、開けた視界にまぶしさを覚えた。
着いたのは、見学する人のために設けられた二階の観覧席。手すりや通路、斜度のついた観客席が奥まで続いている。
まばらでも案外に人はいた。
保護者だろうお母さんの集団。ぼくらみたいに友だちを見に来ているのか、制服姿の女の子たち。プラスチック製の青いベンチシートに腰かけて、下を見ていた。
室内の天井は思った以上に高く、フロアの広いことにぼくは感嘆して、前を行く三津谷さんに構わず、手すりから下を眺めた。
ホイッスルの鋭い音や水をかく音、飛び交う声が、プール独特の反響をともなって聞こえてくる。
「おーい」
たったいまプールから上がった人が、肩にバスタオルをかけ、こっちへ手を振った。
体格がとてもよく、このあいだテレビで見たオリンピック選手と同じような水着の男の人だった。
水泳帽と水中メガネを取り、もう一度大きく手を振る。
健ちゃんだ。
「人夢くーん。勇気ぃー」
健ちゃんの声がよく通るから、大勢の注目を浴びてしまった。ぼくは、なるべく目立たないようにとちっちゃく手を振る。
健ちゃんが自分の後方を指さした。
目を向ければ、プールの飛びこみ台の前に、水中メガネを装着して、軽く体を動かしている人がいた。
だけど、その人がどうしたのだろう。ぼくは首を傾げた。
健ちゃんはまだ指をさしている。
「……豪さんだよ」
ぼくの横に立った三津谷さんが言った。
「え?」
「健がさしてるの、豪さんなんだ」
ホイッスルの合図で、飛込み台で構えていたその人は、水面へ飛び込んだ。手の先から、すっと水中に入る。
浮き上がると、すっすっと水面を掻いていった。飛沫があまりない。あんなにきれいにクロールをする人を、ぼくは見たことがなかった。
体がつねに水と一体化しているよう。息つぎも少なかった。
プールの端まで泳いだ豪さんはターンした。折り返してからも、スピードやフォームは変わらない。
ぼくはカナヅチだから、半分まで泳ぐのも大変なのに、豪さんは十往復ぐらいはこなしていた。
やがてプールから上がる。バスタオルを持ったコーチらしき人が近づいていった。その人と会話を始めたはずの豪さんが、不意に顔を上げた。
ぼくはとっさに手すりを放し、一歩引いた。
ここにいたことをなんとなく知られたくなくて、ベンチシートへ逃げようと思った。
その拍子にだれかとぶつかった。
「すみません!」
頭を下げて、相手の顔を確認しようとしたら、その人はさっさと行ってしまった。
三津谷さんがぼくの腕を引いた。一番後ろのベンチシートまで連れていかれる。
「人夢、お前は帰ったほうがいい」
来たばかりなのに、三津谷さんはそんなことを言う。
「そんなに心配してくれなくても、ぼくは大丈夫だよ。帰る時間ぐらい、自分でちゃんと考えられるから」
少し、ぼくなりにトゲをつけて言った。
しかし、三津谷さんにはなんの効果もない。簡単には引き下がってくれない。
ベンチシートへ先に座った三津谷さんは、ぼくを見上げ、すぐに目を伏せた。
「とにかく、もう帰れ」
「わかってるよ!」
とうとう我慢ならなくなって、ぼくは声を荒らげた。手を固く握る。
頭のどこかで、その先を言ってはいけないと、警告を出していた。でも、爆発を一度でも許してしてしまったこの口は、ぼくにも止められなかった。
「きょうの三津谷さんは、朝からぼくを遠ざけてばっかりだ。そんなにぼくがイヤなら、はっきり言えばいいのに」
三津谷さんは黙ったまま。
動揺している感じもなく、ぼくはやるせない気持ちでいっぱいになった。
久野さんには、三津谷さんを動かせる力があんなにあったのに、ぼくにはこれっぽっちもない。
当たり前だ。考えてみれば、おととい初めて会ったばかりなんだ。
それでも、少しくらいはぼくのほうを向いて、ちゃんと話を聞いてほしい。
「もういいよ!」
最後の一言を叩きつけて、ぼくはプールをあとにした。
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