運命のロク
一
電柱が落とす灯りをいくつも越え、近所をぐるっと一回りしたけれども、ぼくはどうしてもあの家へ帰る気にはなれなかった。
三津谷さんと出会ったあの公園へ入り、電灯のそばのベンチに腰をおろした。
ロクちゃんが珍しくおとなしい。
ぼくの足の前で伏せをして、なにもかもわかってくれたような瞳で見つめている。
「人夢くん?」
ぼくがロクちゃんを撫でていると、長い影が被さった。
顔を上げれば、小さなビニール袋をさげた健ちゃんが、こっちをうかがいながら歩いてくるところだった。ちらっとロクちゃんを見下ろす。
「犬の散歩?」
「うん……。え、健ちゃんはどうして?」
「いや、ほら」
健ちゃんはビニール袋を持ち上げた。
「いま、コンビニへ行ってきたんだけどさ、なんか人夢くんの姿が見えたから」
どこか心配そうに、そしてなにかを探るようなまなざし。ぼくは思わず俯いた。
その途端、沈黙が流れる。
すぐに去っていくだろうと思っていた健ちゃんは、なぜかぼくのとなりに腰を下ろして、デニムの長い足を組んだ。
「そういえば、その犬、ロクって名前だよね」
「うん」
「たしか、勇気んところからもらったんだよな」
ぼくは軽く頷いてから、「えっ」と声を上げた。ベンチの背もたれにそっくり返っている健ちゃんに目をやる。
「え? 人夢くん初耳?」
「うん……」
ロクちゃんは三津谷さんからもらった……。
そうか。だから、あんなになついていたんだ。
「勇気はもともと、野球つながりで善之さんと知り合いで、善之さんの弟が犬をほしがってるからってことで、飼っていた犬が産んだのをあげたらしいよ。それが……」
健ちゃんがロクちゃんをさした。その指先を、今度は自分のこめかみへ持っていって、ポリポリと掻いた。
「人夢くんてさ、もしかして、お兄さんたちとあまりうまくいってない感じ……?」
不意にやってきた、怖れていた質問。ぼくは、健ちゃんをただ見つめることしかできなかった。
「あ、いや。ごめん。余計なお世話だったら、聞き流してくれて構わないから」
「ううん」
と、ぼくが首を振ったのには、お兄さんたちとうまくいってないのを否定したい思いと、健ちゃんの優しさをむだにしたくない思いの両方があった。
なかなか帰る決心がつかなかったのは、あの家にぼくはいるべきじゃないと気づいてしまった……からじゃない。
「ただ、篠原さんて……あ、豪さんのことだけど、あの人結構キツいこともずけずけ言うだろ? ホトケの勇気も、あの人は好かないみたいだし」
ぼくは、その豪さんがさっき放った言葉を思い出した。
『弟がほしいなんて望んだ覚えはねえし、だいいち──』
どくん、と胸が鳴った。
「『チビ坊主』とかってからかわれてたみたいでさ。勇気、なかなか背が伸びないの、めちゃくちゃ気にしてるのに。あいつの前でうっかり豪さんの話題を出すと、たちまちキゲン悪くなるから」
最後のほうは半分独り言みたいな健ちゃんの声を耳にして、ぼくはきょうのお昼休みのことを思い出した。
もしかしたら、あのとき三津谷さんの機嫌が悪くなったのは、豪さんの話になったからだろうか。久野さんが、ってことじゃなく……。
「え? リエちゃん?」
健ちゃんがそう返事をして、心の中で呟いていたはずのものが、じつは声になっていたことに、ぼくは気づいた。
慌てふためいて、お昼休みのことをつぶさに話してしまった。
「それはかなりヤバいな。人夢くんと豪さんのことをリエちゃんに言っちゃったの、しっかりバレてるし」
あごを撫でながら、遠くに目をやる健ちゃん。
その横顔を見て、ぼくはずっと不思議で仕方なかったことを訊いてみた。
「ねえ、健ちゃん。三津谷さんと久野さんて、フウフみたいな仲なんだよね?」
「フウフ? ……あ、まあ。そんな感じっちゃあ、そんな感じだけど」
「じゃあ、久野さんはなんで、三津谷さんの前で豪さんのことを口にしたのかな? 三津谷さんが怒ることはわかってたはずはのに」
どうやら、健ちゃんの頭をも悩ます疑問だったみたいで、何回か首をひねっていた。
「あー……きっとあれじゃない? 勇気をちょっと妬かせてみたかったとかの、複雑な女心」
「複雑な……」
「そうそう。なんにせよ、あいつらつき合い長いからさ。人夢くんがそんなに気にやむことないよ」
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