三
でも、夕ご飯の焼きそばは、豪さんが作ることになっている。
焼きそばくらいなら、ぼくにも作れるんだけど、広美さんがいい顔をしない。一つ勝手なことをしちゃったから、もうこれ以上はしないほうがいい気もする。
ぼくは仕方なく、夕ご飯前だからと手をつけずにいたお菓子の袋をショルダーバッグから出した。
その匂いだけで、サクッとしていて甘い、あの感覚が口の中に広がる。
クッキーをかじった途端、ぼくの全身は、予想通りの幸せでいっぱいになった。
何度か味わううちに、甘い中にもどこか懐かしい感じがあって、手に残ったクッキーをじっと見つめた。
「……お父さんの味がする」
とくにこの舌触り。噛みごたえ。
お父さんのクッキーに欠かせなかったナッツも入っている。休日のおやつの時間は、いつもあのクッキーだったと思い出した。
ぼくのお父さんはパティシエだった。
物心のついたころから、お父さんが作ってくれたお菓子はそばにあって、ぼくはその中でもクッキーが大好きだった。
ヘーゼルナッツやクルミの入った大きなクッキー。お父さんと一緒に作ったこともあって、一生忘れられない思い出のお菓子だ。
二度と食べられないと思っていたのに、こんな近くにあったなんて……。
ぼくは、嬉しさとおいしさを噛みしめながら、買ってきたすべてのお菓子を口に運んだ。
食べ終わり、余韻にひたりきってから気づく。
……結構、お腹がふくれてしまった。
篠原さんちのことだから、焼きそばを大量に出されたりして……。食べきれなくて、それを怒られたりしたらどうしよう。
薄暗くなってきた部屋の灯りを引っ張り、ぼくは時計を見上げた。
もうすぐ七時だ。夕ご飯の時間はとっくに過ぎている。
というか、こんな時間まで帰ってこないなんて、もしかしなくとも……すっぽかされた?
そんな予感がよぎった瞬間、帰ってくる気配のなかった安堵感に、間の抜けたようなわびしさが被さった。
障子戸の向こうから、ロクちゃんの吠える声が聞こえた。
ぼくは、俯かせていた顔をパッと上げる。
そういえば、ロクちゃんのご飯はどうしたらいいんだろう。散歩も連れていってない……。
ぼくは心配になって、ロクちゃんの様子を見に、廊下へと出た。
そのときだった。
廊下の先にある玄関の戸が、タイミングよく開いて、「ただいま」と言う低い声が聞こえた。
「あ、おかえりなさい」
ゆうべは、ぼくが起きている時間には帰ってこなかった一清さん。カバンを上がりがまちに置くや、とても厳しい表情をした。
「人夢、豪はどうした? まだ帰ってないのか?」
それについては正直、ぼくのほうが訊きたいぐらいだった。
ネクタイをゆるめながら靴を脱ぐ一清さんを、ぼくはただ見つめるだけ。
そこで、また玄関の戸が開いた。
やっと帰ってきた豪さんは、一清さんを見て少し驚いていたけれど、すぐにいつもの顔に戻した。
「んだよ兄貴。早く帰ってくるなら、メールでもしてくれればよかったのに」
「……豪、いま何時だと思ってる」
靴を脱ごうとした豪さんと、厳しさを増した一清さんの視線がかち合う。
それを見たぼくは、ますます身を固くした。
張りつめた空気が流れる。
「何時って……七時半?」
家に上がった豪さんは、一清さんをバカにするように鼻で笑った。
一清さんの眉がぴくりと反応した。豪さんの肩をがしっと掴む。
「そんなことを言っているんじゃない」
「あ? なにが?」
不機嫌の頂点にいるような豪さんの声。
深いため息をついた一清さんの作る間が、ぼくにはひどく長いものに思えて仕方なかった。
「──お前、きょうメシ作れって広美に言われたんだろ」
「ああ、言われたよ。だから、せっかくのデートを早く切り上げて帰ってきてやったんだろうが」
「早くって、これのどこが早いんだ。夕飯の時間はとっくに過ぎてる。……いいか、お前は兄貴になったんだ。もう少し責任を持って弟の面倒を見ろ」
もはやぼくは、床とにらめっこするしかなかった。
ただただ、この時間が早くすぎることを願う。
しかし、神様は無情だった。
「べつに、俺は弟がほしいなんて望んだ覚えはねえし、だいいちそいつはホントの弟じゃねえだろ」
「豪!」
天井を突き刺さんばかりの鋭い声がしたあと、玄関の戸が激しい音を立てた。
びっくりして肩をすくめたぼくの目に映ったのは、豪さんのワイシャツの襟ぐりを掴んでいる一清さんだった。
さっきの声といい、あんなに感情をあらわにしている一清さんは初めてで、ぼくは思わず叫んでいた。
「もうやめてください」
拳をさらに握りしめ、声を振りしぼる。
豪さんに吐き捨てられた言葉より、別人のような一清さんのほうが、ぼくにはショックだった。
「ぼく、ご飯のことはもういいです。ぜんぜん気にしてないですし、それよりも、二人がそんなふうにケンカするほうが嫌です」
そして、その原因のすべては、ぼくがこの家へ来たことにある気がして、いたたまらなくなった。
「あの……ロクちゃんが散歩に行きたがっていたから、ぼくちょっと行ってきます」
ぼくは、二人と目を合わせることなく頭を下げ、納戸からロクちゃんの綱を取ると、一目散に家を出た。
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