三
「あの、なにかお手伝いすることは……」
台所にはやはり、夕ご飯の支度をしている広美さんの背中があった。
ぼくが声をかけると、炒めものをしていた手が止まり、コンロの火を消しにいった。
振り返った広美さんは、口を開きかけたけど、そこではなにも言わず、再び背を見せた。
「……いや、ここはもうすぐ片づくから、となりでテレビでも」
ぼくとしては、家のお手伝いを理由に早く帰ってきたから、なにもしないのも気が引ける。
だけど強く出ることもできない。
素直に、台所から居間へと上がり、ぽつんと座卓のそばに正座した。
一清さんもそうだけど、広美さんも、ぼくに変な気を使っている感じがする。用事をもっと言いつけてくれたほうが嬉しいのに。
……なんていうのは、ぜいたくな悩みなのかな。
ぼくはため息を吐いて、座卓の上に置いてあった新聞を広げた。
いまはなにを放送しているのかと、ラテ欄を眺めていたら、前に好きでよく観ていたドラマのタイトルを見つけた。
ぼくは四つんばいで畳を進み、この和室には似つかわしくない大きなテレビの電源を入れた。
リモコンを適当にいじっていると、そのドラマらしき映像が現れた。
それに重なるように、ものすごい足音が天井から落ちてきた。
それは結構な早さでぼくの頭上を渡り、階段を降りてくる。
誰だろうと、その人物に意識を注ごうとしたところで、居間の襖が開かれた。
姿を見て、思わずどきっとした。
そんなぼくと一瞬だけ目を合わせた豪さんは、頭をかがめて鴨居をくぐると、すぐさま台所に行った。
「広美、メシ!」
「ふざけんなよ。まだ五時過ぎだろ」
「でも腹減った!」
「だったら、その辺の草でも食っとけ。……つうか」
台所の会話は、そこで途切れた。代わりに、ひそひそと交わされる声が聞こえる。
ぼくはたまらなくなって、テレビのボリュームを上げた。
べつにぼくのことを言っているわけじゃない。だから気にすることもない。
そう思ってドラマに集中しようとしたら、視界の端っこにあった新聞が急に消えた。途端に、バサバサと音がした。
ぼくのななめ前に座った豪さんがおもむろに新聞を読み始めたのだ。
自ずと緊張が走る。
なにか話しかけられたら、どうやって返そう。いきなりひどいことを言われたらどうしよう。
しかし、ぼくの心配をよそに、新聞をめくる音だけがのんきに響いた。
あまりに普通にしているから、ぼくなんて端からいないものと思っているようにも見えた。
「お前さ、人夢とか言ったっけ? どうでもいいけど、いつまでそうしてるつもりなんだ」
過剰に意識していても疲れるだけだと、ドラマにも耳を傾けるようになったころ、唐突に話しかけられた。
顔を向けると、新聞から離れた視線とぶつかった。
というか、いつまでって……なにをだろう。いつまでこの家にいるのか、ってことなのかな……。
本当にそれを訊いたのなら、どう答えろと言うんだろう。どうしろと言いたいのだろう。
いろいろ考え始めたら、自然に頭が垂れていった。
「ずっと……」
「いや、それはキツいだろ」
小さく告げた言葉に冷笑が被さる。
ぼくはますますうなだれた。
「どうしてそんなこと……」
「正座なんかやめろ」
「……え?」
思いもよらない言葉だった。ぼくは、ぱっと顔を上げた。
「そうやって正座して縮こまってると、通夜みたいで陰気くさくて、見てるこっちがキツいんだよ」
安堵する間もなく、また落とされる。
ずんと重苦しい空気が降りてきたけど、ぼくはとにかく、すぐに足を崩した。体育座りに変える。
そこへ、救いの神とも言える広美さんの声が飛んできた。
「豪、メシできたから善之呼んでこい。悪いけど、よそうの手伝ってくれるか。人夢」
「はい」と答えて、豪さんとすれ違うように居間を出た。
目に飛び込んできた食卓の上には、大皿に盛られたギョーザとマーボー豆腐、チンジャオロースーがある。
そして、ここに来て初めて見た一升炊きの炊飯器。そのとなりには、小どんぶりくらいのお茶碗が三つと、普通サイズのお茶碗が一つ。
お兄さんたちはみんな大食漢だ。
でもぜんぜん太ってない。おやつの習慣がないから。
甘いものが大好きなぼくにとって信じられないほど、この家にはお菓子というものがないんだ。
豪さん以外のお兄さんたちはみんなお酒を飲める年齢だけど、家ではほとんど飲まないらしい。
お義父さんがお酒もタバコもしない人で、その辺は厳しいんだって一清さんが言っていた。意外と健康重視で生きているとも笑っていた。
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