もう一つの出会い



「人夢くん!」


 昇降口で靴を履き替えていたぼくは目をはね上げた。どこかで聞いた声というのもあったから。

 すでにぼくしかいないひっそりとした昇降口は、たった一人の存在で、一気にその空気を変えられた。


「仙道くん……」

「違うよ。健ちゃんと呼んでって言ったでしょ」


 その健ちゃんはもう外履きになって、出入り口のほうから姿を見せていた。

 午前に会ったときはしっかりと留まっていたワイシャツのボタン。それがすべて外され、中に着ていた黒のシャツが見えている。

 なにも入ってなさそうな厚みのない背負いカバンを、健ちゃんは左肩にだけ引っかけていた。


「途中まで一緒に帰ろ?」

「……え?」


 放課後すぐに帰宅するのは、てっきり自分ぐらいだろうと思っていた。健ちゃんは体格もいいし、なおのことなにかスポーツでもしているんだと思っていた。


「人夢くん、なんで俺がここにいるんだって言いたそうだね」


 図星をさされ、顔が熱くなる。

 ぼくがなにも言えないでいたら、健ちゃんに笑われてしまった。


「人夢くんてさ、ホントわかりやすい。ちょーカワイイ」


 口を閉じるのも忘れ、ぼくは健ちゃんを見つめた。

 それをまた笑われる。


「冗談だよ、ジョーダン。真に受けないでよ」


 真に受けるわけがない。だけど、ぼくは口を尖らせて健ちゃんの脇を抜けた。

 からかわれたのがちょっと面白くなかった。


「ごめん、ごめん。人夢くん、怒ってる?」

「うん。すごく怒ってる」


 そっけなく答え、ぼくは昇降口を出る。グラウンドへと足を向けたら、健ちゃんが視界に入ってきた。


「人夢くんは部活やらないの?」

「健ちゃんこそ」

「え?」

「同い年と思えないくらい体格いいから、運動部に入ってるんじゃないのかなって」


 見上げると、健ちゃんは首をひねっていた。


「勇気から聞いてないの?」

「……なにを?」

「てか、俺の話題とかぜんぜん出なかった?」


 ぼくは首を傾げた。とくに話題には上らなかったから、それを素直に口にしたら、健ちゃんは腕組みをして、「おかしいなあ」と呟いた。


「あの、そろそろぼく行かないとだから」

「ああ、人夢くん待って」


 ぶつぶつと独り言をもらす健ちゃんを置いて、三津谷さんのところへ行こうとしたけど、また呼び止められた。


「俺さ、篠原さんとおんなじスイミングクラブに通ってるんだ。そういえば、きょう帰ってくるよな」

「篠原さん……て?」


 ぼくの知っている篠原さんは少なくとも五人いる。一清さん、広美さん、善之さん、豪さん。あと、一緒には住んでないけど次郎さんもいる。そのどの人かを訊いたのに、健ちゃんは大きなため息を吐いて頭を抱えた。


「いや、もういいや。じゃあ、人夢くん。またあした」

「……うん。ばいばい」


 健ちゃんはひらひらと手を振りながら駐輪場の奥へ消えた。

 とりあえず、家に帰ったらお兄さんのだれかに健ちゃんのことを訊いてみよう。

 ぼくは気を取り直し、今度こそグラウンドへ向かった。





 緑色の防護ネットが張られているグラウンドの一角で、野球部は練習をしていた。

 コーチの先生が打ったボールを順番で取っていたり、端っこでは、ちょっとハードなキャッチボールをしていたり。

 いかにも体育会系な低いかけ声が、ところどころから上がっていた。

 グラウンドも前の学校より広く、それにもびっくりしたけど、さまざまなユニフォームから見える活気もすごいものだった。

 ただ残念で仕方がないのは、いまだに三津谷さんを見つけられないこと。似たような背格好で、野球部の同じユニフォームを着ているから、きょう出会ったばかりの人を見分けるのは難しい。

 きょろきょろしつつもぼくは目をこらし、三津谷さんを探した。

 そんな中、ある人の動きに釘づけになった。向こうのネット際でボールを投げている。

 こっちへ背中を見せているから顔はわからないけど、ボールを放るときのかっこよさは、野球を知らないぼくにも突き刺さるものがあった。

 キレのある体さばき。力強いフォーム。球威のすごさ。ミットに収まるときのボールの音がここまで聞こえてくる。

 フェンスにかじりつくようにして、ぼくはその人に見入った。


「おい、お前。さっきからなんだ。入部希望か?」


 しばらく眺めていると、ぼくの視界を遮るようにだれかが現れた。

 顔を上げれば、薄汚れた野球帽と鋭いまなざしが目に入った。エラの張ったゴツい顔で、真っ黒に日焼けしている。


「主将、すみません」


 そこへ、三津谷さんの声が飛んできた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る