「悪ぃ、勇気。歴史の教科書貸して」


 最初、おんなじクラスの人かと思ったけれど、教科書を借りにきたなら、それは違うことに気づいた。


「勇気、もしかして例の転校生?」


 すると、その男子と目が合った。

 とっさに自己紹介の一つも出てこないぼくに代わって、三津谷さんが言ってくれる。


「ああ、そうそう。きのう言ってた転校生の篠原人夢くん。人に夢をで、「トム」くん」

「へえー……人夢くん」


『人に夢を』


 三津谷さんの声に重なるようにして、ふと耳の奥で響いた。

 ずっとむかしに聞いた、おまじないのような言葉。


『だれかに夢を与えるような人間になって欲しい。そういう意味があるんだ、お前の名前には──』


 そのお父さんが、近くで微笑んだような気がして、ぼくは振り返ってみた。

 でも、当たり前だけど、そこにだってどこにだって、お父さんはいない……。


「人夢?」


 三津谷さんの声がして、ぼくははっとなった。

 慌てて顔を戻すと、三津谷さんのとなりの男子も、不思議そうな表情でぼくを見下ろしていた。


「俺の自己紹介はちゃんと聞いててくれた?」


 と、今度は苦笑する。

 ぜんぜん耳に入っていなかったけれど、ぼくはそれをはっきりとは言えず、目を伏せた。


「ちょーわかりやす……。仕方ないからもう一回ね。俺は仙道健一郎(せんどうけんいちろう)。まあ、健ちゃんとでも呼んで」


 ぼくが目線を上げると、三津谷さんに負けず劣らずの笑顔があった。

 その笑みがふっと消えた。

 三津谷さんの肩に手を回し、仙道くんがなにやら耳打ちをした。

 しばらく、ひそひそ話が続く。


「──弟って、まじかよ!?」

「ばかやろう! 声がでけえだろ!」


 その三津谷さんの声も相当なもので、近くにいた女子も男子も振り返って二人を見た。


「人夢、そろそろ次の授業が始まるから行くぞ。……健、歴史貸してやるから早くついてこい!」


 ぼくの手を取った三津谷さんは、早口でまくし立てると、教室へ向かって歩き出した。

 一方の仙道くんは、なにかを言いたそうに肩をすくめて、こっちを見た。

 まるで、ぼくを値踏みするかのような視線。少し気分が悪かった。

 けれど、次の瞬間には笑顔に変わっていて、ぼくは首を傾げるしかなかった。





 給食のあと、三津谷さんに連れられ、ぼくは校内を見て回った。

 生徒玄関前の体育館に始まり、特別教室が並ぶ棟や保健室、図書室などを案内してもらった。

 教室へ戻る途中、ぼくはずっと気になっていたことを、思いきって三津谷さんに訊いてみた。


「──あの篠原さん? リエが言ってた?」

「うん。ぼくとなにか関係があるの。って」


 三津谷さんは立ち止まって、坊主頭を掻いている。

 それがだれなのか悩んでいるふうではなく、そのだれかを言いたくないように見えた。


「三津谷さん?」

「……たぶん、豪さんのことだと思うよ」

「え?」

「あの人、女子にやたら人気があるんだよ。あそこの兄弟はみんなすげえモテんの。だから、ウチの学校の女子は、大体が篠原って名字に敏感でさ」


 ささっと言って、三津谷さんはまた歩き始める。


「篠原さんたちと兄弟になったってこと、あんまり言わないほうがいいかもな。バレたら、いろいろと大変なことになりそうだ」


 なにが大変になるのか。それを考える間もなく、ぼくと三津谷さんの距離がどんどんと広がった。慌てて足を出す。

 すると、三津谷さんが肩越しにちらりと視線を流した。

 ぼくがいるのを確認したって感じ。


「人夢は、どこの部活に入るとか決めた?」


 ぼくは首を振った。


「家の事情もあるから部活動は免除にしてもらったんだ。とくに入りたい部もなかったし」

「前の学校は?」


 答えるのにちょっとためらってしまった。


「ええと……調理部かな」

「ちょうり?」


 すっとんきょうな声が響いた。

 ぼくはもっと恥ずかしくなって素早く切り返した。


「三津谷さんこそ。なに部なの」

「は?」


 三津谷さんは、大きく目を見開いた。微苦笑を浮かべて頭のてっぺんを撫でる。


「いやいや。この髪型で一目瞭然でしょ」

「あ、そっか。あのボール……野球?」

「そう」

「やっぱりボールは返すよ。大事なものなんじゃ……」

「いいって、いいって。あんなのたくさん持ってるから。それより、人夢は野球好きか?」


 スポーツ自体、ぼくはあまり興味がなかった。

 野球好きな人も周りにいなくて、ルールもよくわからなかった。


「ごめん。野球のことぜんぜん知らないんだ」

「そうか。つか、なんで謝るの。あ、だったら放課後にでもグラウンド見に来いよ。練習やってるからさ」


 にわかに瞳を輝かせ、三津谷さんが言う。

 野球を知らないぼくを呆れるふうでもなく、馬鹿にするふうでもなくて安心した。


「ああ、でも人夢は早く帰らなきゃか」


 三津谷さんは肩を弾いて言った。

 その残念そうな声に、ぼくは頷くことができなかった。

 本当は早く帰って、お兄さんたちのお手伝いをしなきゃならないんだろうけど、せっかく誘ってくれた三津谷さんをがっかりさせたくもなかった。


「ううん。ちょっとくらいなら大丈夫」

「マジ? ……無理とかしなくてもいいんだぞ」

「本当に大丈夫。三津谷さんが野球してるところ、ぼくも見たいから」


 三津谷さんが破顔(わら)う。それにつられて、ぼくまで笑顔になった。

 廊下を行き交う人が徐々に増えてきた。

 それに気づいたぼくたちは、教室へと戻す足を少し早めた。




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