二
「それにしても本当に大変だったね。きのうこっちへ越してきて、お母さんたちはもう東京へ発ったんだろ? ……あ、きみの場所はここだよ」
すでに人がまばらとなっている昇降口。さっき職員玄関で脱いだ靴を、小林先生に教えられた下駄箱へしまった。
先生のあとについて、体育館を抜ける。
「お兄さんたちとの折り合いとか、なにか困ったことがあれば、先生も相談に乗るから。遠慮しないでなんでも、な?」
「はい。でも、一清さんも広美さんも善之さんも、いろいろとよくしてくれているので、その辺は大丈夫です」
「そうか。たしかに、お兄さんたちは優しいもんな」
視線を下にやり階段を踏みしめていたぼくは、小林先生のその言葉に顔を上げた。
「先生は、一清さんたちをよく知っているんですか?」
「ああ、よく知ってるよ。一昨年(おととし)までは豪くんの担任だったからね」
変に早口になった小林先生は、階段を登るスピードも早めていった。
離れてはいけないと、ぼくも急ぐ。
「豪さんの担任も……」
「うん?」
「……豪さんは、どんな人ですか?」
もっか、いまのぼくが一番気になるところ。
同じ屋根の下で暮らす人なのに、いまだ顔さえも知らないから。
「どんな、って?」
「ぼく、まだ豪さんに会っていないんです」
先生が足を止め、ぼくも立ち止まる。
上を見た。
二年二組の教室を示すプレートが目に入った。
その上の窓には、たくさんの顔が並んでいて、こちらを覗いている。
女の子、男の子、また女の子──。
髪型や目の大きさ、鼻や口のかたち、どれ一つとして、同じものはないけれど、満面の笑みは見事にそろっていた。
ぼくは、その笑顔の列を見て、朝、ロクちゃんの散歩のときに会った三津谷さんを、なぜか思い出していた。
チャイムが鳴った。
それと同時に、教室の中で、がたがたとにぎやかな音がした。
笑顔がいっぱい咲いている音も、ぼくには聞こえた気がする。
「ったく……」
呆れたようなため息をもらして、小林先生は教室の戸を開けた。その後ろのぼくは、笑いをかみ殺すのに必死だった。
しかし、先ほどの騒ぎがうそのように、教室の中は静まり返っていた。
たくさんの視線が注がれて、一気に緊張感が増す。
「きのう言っていた転校生を紹介する」
小林先生の声が教室に響いた。
ぼくは、おずおずとみんなの前を向いて、並んでいる顔を見渡した。
「え、」
窓側の一番後ろの席。
その姿を見つけて、思わぬ高い声が出た。
そこには、公園で会ったときとなんら変わらない笑顔の三津谷さんがいた。手を軽く上げ、白い歯を見せている。
窓から見えたあの笑顔たちの中心には、もしかすると三津谷さんがいるのかもしれない。
そう教えてくれた、ぼくの第六感。
こんなことって本当にあるんだ……。
「……くん。一言自己紹介してくれるか?」
三津谷さんに気を取られていたら、突然肩をたたかれた。
口から心臓が出そうになるほど驚いたけれど、ぼくは反射的に頭をさげた。
「はいっ、朝日第三中学から来ました、行田(ぎょうだ)人夢です。よろしくお願いします」
途端に、教室の静けさがゆるむ。
ざわつき始めたところどころにはひそひそ笑いがまざっていた。
そんなにおかしい自己紹介だったかな……?
ぼくが上半身を起こすと、となりにいた小林先生が言った。
「『篠原』人夢くんだ。みんな仲良く、よろしく頼むな。で……」
ぼくは、自分の冒したおおぼけに、そこで気がついた。
だって、篠原の名字に、まだ慣れていないし……。
「気にするな。間違いはだれにだってある。席は、そこの空いているところだ。となりは学級委員長だから、分からないことがあったら、彼に訊くといい」
と、先生が指さしたた場所は、窓側の一番後ろの席の……となり。
つまりは──。
「三津谷、あとで校内を案内してやってくれ」
三津谷さんは「はい」と頷いて立ち上がると、ぼくに会釈した。
「おれは学級委員長の三津谷勇気。よろしくな」
「は、はい。どうぞよろしくお願いします」
ぼくと三津谷さんはそのとき、二人にしか分からない意味の笑みを、ひそかに交わしていた。
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