「これ、ロクって名前だよな?」

「うん……」


 おかしいなあと呟く声が聞こえた。

 ぼくが上目づかいを送ると、その人はあごを一撫でして、またロクちゃんをヨシヨシした。


「篠原さんとこのロクだろ?」

「……」


 余計なことは言いたくなかったのに、説明しなくちゃならない感じになってきた。

 ぼくと同い年にも見えるその人は、篠原さんちのこともロクちゃんのことも知っているみたいだった。


「あ、おれはさ、そこら辺に住んでる『みつやゆうき』っていうんだ。ああーと」


 みつやさんは、近くに落ちていた小枝を拾って、砂の地面に自分の名前を書き始めた。


『三津谷勇気』


「──と、こういう字ね。『つ』がさ、口で説明すんのにいつも困るんだよな」


 はははと笑って、三津谷さんはしゃがんだ。すっかり大人しくなったロクちゃんを撫でくり回している。

 そして、ぼくをぱっと見上げた。


「で、キミは?」

「……え、」


 展開が早すぎて、ぼくは言葉に詰まってしまった。

 初対面のはずなのに、それを感じさせない三津谷さんの言動に、少しあ然となっていた。


「あの、ぼくは……」


 自分の名前を言おうとしたとき、綱がピンと張った。

 まず腕が。続いて、上半身が持っていかれる。

 ロクちゃんが、飼い主さんと公園へ入ってきた小型犬に反応して走り出したのだ。

 ぼくはとっさに踏ん張り、綱を引いてなんとかロクちゃんを止めた。

 もしかしたら、メスのワンちゃんだったのかもしれない。


「ロクちゃん! だめだよ」

「ロク! おすわり!」


 しきりに前足を上げて、突進する気満々だったロクちゃんが、三津谷さんの一声で腰を地面につけた。


「あいつとの散歩のときはすげえおとなしいのに」

「初めての人とは、やっぱり嫌なのかな」

「いや。そうじゃないと思うよ」


 三津谷さんは、ジャージのポケットからボールを出した。

 野球の。それを、ロクちゃんの口元へ持っていく。


「むしろ逆でしょ。なあ、ロク」

「ぎゃく……?」

「そ。うれしすぎて興奮してるんだよ」


 三津谷さんはニカッと笑い、ボールを転がした。

 それをくわえたロクちゃんは、伏せの体勢で大人しく遊び始めた。


「というか、なんだかんだキミの名前、まだ聞いてなかったよね」


 三津谷さんがにわかに眉根を寄せた。


「あいつと、どういう関係?」

「……あいつ?」

「うん。ロクの飼い主」

「それって……豪さん?」


 ぼくは、あえて自信がないように訊いてみた。

 三津谷さんが軽くうなずく。


「ロクの散歩してるってことは……親戚とか?」


 ぼくは首を横に振り、しばし迷ってから、真実を口にした。

 その途端、三津谷さんが思いきり目を剥いた。


「弟? またまた~。そんな面白くもないジョーダンを」


 もう一度、ぼくは首を振った。あいにく、初対面の人にジョーダンを言えるスキルなど、持ち合わせてない。


「マジ? 弟って」

「なんて言ったらいいのか……。ぼくのお母さんと、篠原さんのお義父さんが再婚して……」

「……」

「それで、みんなが家族になって……」


 それまで真っ直ぐだったぼくの目線、声のボリューム。べつに後ろめたいことはないのに、自然と下がっていった。

 三津谷さんも黙る。

 そこへ、ランドセルを背負った小学生たちの賑やかな声がした。


「そっか。そういう事情が……。まあ、なんにしても大変だよな。知らない家に入るってさ。それが、よりによってあの篠原さんちだもんな。なんかあったら、おれも相談に乗るから」


 三津谷さんが急に早口になった。

 そわそわもし始め、その次にはきょろきょろしていた。


「じゃあ、おれはこれで」

「あ、あの!」


 背中を向けた三津谷さんを、ぼくは慌てて引き止めた。

 どうしても訊いておきたいことがあったから。


「三津谷さんは、豪さんと仲がいいんですか?」


 三津谷さんの足がピタリと止まった。

 首だけを動かしてぼくを見る。その目が少し怖かった。

 でも、すぐに緩められた。


「どっちかっていうと、おれは、善之さんとのほうが仲いいかな……。あ、キミさ、中学生だよね?」

「うん」


「やっぱりね」と、三津谷さんは頷いて、片手を上げた。

 その小さくなる背中を、不思議な気持ちでぼくは見つめていた。

 不意に腕が引かれる。

 ロクちゃんを思い出し、ぼくはあのボールも見つけて、あっと声を上げた。


「三津谷さん、ボール!」


 ロクちゃんが放したボールを勢いよくかざす。

 三津谷さんは、もう公園の出入り口にいたけれど、満面の笑みで手を振ってくれた。


「ロクにやるよ! じゃあまたな!」


 わずかにぼくより低い声を残して、三津谷さんは消えた。

 いなくなると、なぜか園内の空気までも変わったような気がして、急に心細くなった。

 ヘンなの。

 初めて会った人のはずなのに、まるで、むかしから仲よかった友だちみたいに感じる。


「五年三組……三津谷勇気」


 ぼくは手の中を見た。

 三津谷さんがくれたのは、かなり使いこんでる野球のボール。

 突っ立ったまま、しばらく眺めていたぼくだけど、しびれを切らしたロクちゃんに急かされるように公園を出た。




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