帰路

伊島糸雨

帰路

 人気の失せた教室を後にする。電気の消えた廊下には色濃い影がそこかしこにあって、私たちはなんとなくそこを避けて歩く。肩にかけた鞄が横を歩く友人の肩にあたったので、「あ、ごめん」と言った。彼女は頷きだけを返し、私と同じ速度を維持しながら、陽の当たる階段を下りていく。

「今日どこか寄る?」

「いや、やめとく。遅くなっちゃうし」

 それもそうね、と相槌を打ちながら、下駄箱に上履きをしまった。代わりに取り出した靴を地面に放り投げて、足を突っ込む。一足早く靴をつっかけた友人が、小さく飛び跳ねながらつま先を鳴らした。

「よっ」

 同じ動きで、私も靴を履く。昇降口を出た友人の「いくよー」という言葉に、はい、とか、あい、とか適当に返して、前のめり気味に背中を追った。隣に並んで、歩を進める。

「今日も疲れましたわね」

 ため息を吐きながら、そんなことを言った。友人は「わねぇ」と頷いて、「まぁいつものことだけど」と補足した。まったくもって正しい評価だった。必死に生きているゆえ、毎日大抵疲れている。そのために、帰路における会話の中身は脱力しがちなのだった。

 朝には通学路だったものを逆走する。太陽の位置は入れ替わり、空は茜色に染まっている。スズメの代わりにカラスが飛び交い、電線に止まっては、カァ、と鳴いていた。

 友人は運動部に所属しているので、朝練の関係とかで一緒に通学する機会は少なかった。だからというかなんというか、帰りはこうやって一緒に道を辿ることが多い。中学生の時から変わらない流れだった。結局私たちは地元の高校に進学し、再び肩を並べている。

 ネクタイを緩めて、シャツをはためかせる。夏の名残か、まだ少しばかり暑いのだった。アイスとか食べたくなるので、道すがら駄菓子屋に寄ることもあった。年をとったら私は、こんなのを『青春』と形容して憚らないのだろうな、と思い、まぁ田舎の青春なんてこんなものよね、と一人で納得する。そのことを友人に話すと、彼女は器用にも眉を八の字にして、「もうちょっとなんかあるでしょ」と物申すのだった。はて、なんかあったかな。生憎と、思いつかないけれど。

 いつ舗装されたのかもわからない凸凹のアスファルトを踏み歩く。西日が反射して、地面は微かな煌めきを返していた。

 魅惑的な駄菓子屋を強烈な意志の力で通り過ぎ、最寄り駅に到着する。駅長も駅員もいやしない無人駅だ。どうしてこうなったのかというと……いや、どうもこうもなかった。最初からこうだったのである。田舎だもの、仕方ないわね。人件費はいつだってローコストだもの。

 駅のホームに一つだけ置かれたベンチに、二人して腰を下ろす。他に人影はない。高校でこの駅を使うのは、私と友人の二人と合わせても十人いるかどうかだった。

 遠くに見える森のあたりから、カナカナとひぐらしの声がする。夏の風物詩は、この時期になってもまだ必死になってつがいを探しているようだった。私たちが休みの間も、その音はどこからか聞こえてきていたけれど、彼らはいつになっても忙しそうだ。

「あつい……」

「えあー……」

 言語化を放棄して、音声のみをお届けする。肌はじっとりと汗ばんで、少し気持ちが悪かった。

 電車を待つ間、特に会話もなく、ぼんやりと時間を過ごした。私の方は時折友人の方を盗み見ては、斜陽で赤みがかった横顔を、なんとも言えない心持ちで眺めていた。

 これまでというもの、どの年も隣には友人がいて、ひぐらしの声も一緒に聞いてきた。隣に座ったりして、彼女を意識するたびに、いつまでたってもこの感覚を共有していたいと、そんなことを思う。

 現実的じゃないとはわかっている。夢想だというのも知っている。けれど、これから先私は彼女のような人と出会って同じような関係を築けるだろうか、と考えると、いつだって答えは否なのだった。

「あ、きた」

 瞳が揺れると同時に、彼女は小さく呟いた。視線の先を追うと、夕暮れの中を小さな光が走ってくるのが目に映った。やがてその光は輝きを増していき、目の前をわずかに通り過ぎる。緩やかな風に服が煽られ、友人の少し長い前髪が草木のように揺れる。空気の抜ける音とともに扉が開き、内側の光が溢れ出た。

「ようやっときた……よっこいしょっ、と」

 そう言いながらゆっくり立ち上がると、友人の控えめな笑い声が耳に届いた。

「おじいちゃんみたい」

「それを言うならおばあちゃんでは?」

 冗談めかして返しながら、黄色い線を跨いで、蛍光灯の明かりに身を浸す。短い車内には私たちしかいないようで、本来小さいはずの車内が妙に広く思える。まぁ、見慣れた光景ではあった。この時間に帰ると、だいたいいつもこんな感じ。私たちが貸し切ったみたいになるのだった。

 人というのは不思議なもので、これだけ席が空いていても端っこに座りたがる。友人はドア近くの場所に並々ならぬ愛着かなんかがあると見えて、すぐにそこを確保していた。私は、まぁ、別に、というか。彼女の隣が定位置という以外は、特にこれといった拘りもない。自然を装って友人の隣に座るのみだ。

 ぼそぼそとした車内アナウンスが流れ、ドアが閉まる。一拍おいて車体が振動し、友人の方へと重力がかかったので、どさくさに紛れて少し距離を詰めた。

 緩やかな揺れと一定間隔に響く振動音で、少し眠くなってくる。小さく欠伸と伸びをした直後、肩に微かな重みが加わるのを感じた。目を向けると案の定友人が目を閉じて寝息を立てていて、私の意識はあっという間に冴えるのだった。

 心地よい重みだった。幼気いたいけな表情と無防備さは私への信頼を示すようで、その喜びは何ものにも代えがたい。彼女との付き合いの中で、信頼という一点に関しては、自惚れでもなんでもなく勝ち得ているものだと私は思っていた。

 中学生になった時から、車窓から見える光景は変わっていない。私たちばかりが成長し、変化して、周囲を置き去りにしていくような気がする。同じ道を電車は走り、私たちは同じ風景を見つめながら、車両の上で線路を滑っていく。

 自分が変わっていくことを自覚すると、変わらないもの、変わらないで欲しいと願うものはよく目立つのだった。私にとっては、隣で目を閉じている彼女との関係が、それにあたる。

 夕焼けの茜色。じっとりと汗ばんだ夏服。ひぐらしの声。肩に乗る重みと、肌の温度。

 あと何度、感じていられるのだろう。

 私たちは、いつまで一緒に居られるのだろう。

 ついつい、そんなことばかりを考えてしまう。今を大切にすべきなのにね。

 彼女が身じろぎをした拍子に、髪が私の首筋を撫でていった。くすぐったさと同時に、なんだかぞくぞくしてしまう。いけないいけない。少し落ち着くべきだ。二人きりというのは、どうにもいけない。私ばっかり意識しちゃって、なんだか馬鹿みたい。

 アナウンスが、間も無く目的地に到着することを伝える。私は最後にもう一度、横目で彼女の寝顔を眺めてから、自由な方の手で彼女の腿を軽く揺さぶった。

「おうい。起きろー。もう着くよー」

「……ん……んあ」

 ゆったりと瞼が持ち上がり、何度か目を瞬かせる。状況を認識すると同時に、柔らかな匂いを残して黒髪は離れていった。

「……肩、ありがとう」

「いい枕だったでしょ」

「ちょっと硬かったけど、まぁ」

 若干の照れを頬に滲ませながら、彼女は言った。私は笑って、「また貸すよ」と言った。

「その時はお願いする」

 彼女の笑みは朗らかだった。私の思う彼女の良さの一つである。

 出発から何度目かの停車。今度こそ、私たちの番だった。

「ようやっと着いた……よっこいしょっ、と」

「またそれやるの……」

 ウケるかな、と思ってやったら、案の定突っ込まれた。方向性としては、呆れに寄っているけれど。

「いいんだよ何度やっても」

 君が何か言ってくれるうちはね、と内心でつけたしておく。その限りにおいては、やり甲斐があるというものだ。

 外に出ると、車掌さんが軽く会釈をしてくれたので、私たちも同様に返した。改札に向う最中、背後では電車の発車音が響いていた。

 駅の入り口から、私たちはいつも別の道を行く。彼女が立ち止まるのを見て、私もまた足を止めた。駅舎の屋根では、二羽のカラスが隣り合ってこちらを見つめていた。

 彼女が振り向いて、私を見る。私は結構いつも彼女を見ているので、普段通りに。

「じゃあ、またね」

「うん。また明日」

 私は小さく手を振りながら、遠ざかっていく背中をしばらく見つめていた。

 彼女は振り返らない。普段通り。そして明日もまた、普段通りであればいい。この心地よい距離感が続けばいい。私は彼女を見つめていればいい。形はどうあれ傍にいられれば、見返りなど、いらないのだ。きっと。

「……帰るか」

 小さく呟いて、再び足を動かし始める。

 真夏の残滓と過去の記憶が、路上にわだかまっていた。私はそれを掻き分けながら、前へと進んでいく。

 拒むことも、見ないふりをするのも、私には到底無理だから。この通学路が、明日も変わらずにあればいい。

 私が彼女と歩けるように。こんな日々が、続くように。

 駅の屋根にいたカラスが、連れ立って飛んでいく。

 勝手に励まされたと解釈して、私は小さく叫びながら家路を急ぐのだった。


                                 【終】

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