甘い物に関する彼女の私見

「私、思うんだけど」


 部屋着に着替えて腰を下ろした所で、どこか退屈そうな顔で彼女が呟いた。

 こういう切り出し方をするときの彼女は決まって機嫌が悪い。

 怒り出すほどではないけれど、吐き出さずにはいられない程度には苛立ちを感じている。

 牛乳パックを開けるのに失敗して、両方の口を開けてしまったときくらいには苛立ちを感じている。

 あるいはポテトチップスの袋の上部を開こうとしたのに天の岩戸は閉ざされ続けるばかりで、結局ズルをしてハサミで横から切るしかなくなったときくらいにはフラストレーションが溜まっている。


 きっと、点けっぱなしのテレビの内容が気に入らなかったのだろう。

 とにかく無視することだけは出来ないから、喉が渇かないようにお茶でも淹れて、彼女の話を黙って聞くことにする。

 こういうときは何も言わず、ただ耳を傾けるのが男の役目なのだ。


「どうしてケーキってお祝いごとのときに食べるものってイメージがあるのかしら。もっとこう、カジュアルに食べるものとして認知されてもいいと思うのよ」

「そりゃ、ケーキ業界のイメージ戦略の賜物なんじゃないかな」

「そういうことを聞きたいんじゃないのよ」


 全く、女というのはこれだから困る。

 確かにいまの僕の返答はいささか配慮にかけていたかもしれない。

 けれど、妥当と思われる推論に対する答えが聞いていないだなんて、ちょっとひどすぎるんじゃないのか。

 仮に彼女が求める答えが正論じゃなかったとしても、だ。

 せめて『確かにそうかもしれないわね』くらいの避け方で済ませてほしいところだ。

 全く、女というのはこれだから。


 トン、トン。


 おっといけない。無意識に指でテーブルを叩いてしまっていた。

 今は黙って耳を傾けるべきだとついさっき判断したばかりだと言うのに、僕のほうが彼女に苛立ちを貰ってしまってどうするんだ。

 僕は彼女と違って、感情に流されたりはしない。

 少し感情に乱れが出た程度なら、理性が上回る。

 ちょうどさっき出先で買ってきたキャビンの5ミリを取り出し、火をつける。

 落ち着きたいときにはやっぱりこれが一番だ。

 たばこの絶妙な心地よい味が、穏やかな凪を僕の心に与えてくれる。


「それ、また買ってきたの? 値上がりしたらやめるって話は一体どこにいったのよ」

「やめるのはやめたよ。あんまり意味がないことがわかったし、値上がりくらいでやめられるならそもそも吸い続けてない」

「ふうん、まあいいけど。ところでそれって一箱いくらするのよ?」

「ん、二十本入りで四百五十円だけど」

「一日で一箱?」

「ま、そんなもんかな」

「やっぱり」


 一体、何がやっぱりなのだろう。

 さっきまでの話題を忘れてもらえるのならそれはそれで助かるけれど、珍しくたばこに興味を持っているいまの彼女が何を言い出すのかのほうが、よっぽど怖いかもしれない。

 彼女は別に嫌煙家というわけではないけれど、『たばこなんて臭くて不味いものにお金を払うなんてありえないわ』、なんてよく言っているくらいだ。

 たばこの銘柄に興味を持つ訳がないし、パッケージがお洒落だから、なんていう理由でピアニッシモを吸い始める未来なんて平成の次の元号を僕が言い当ててしまうくらいありえない。

 だからこそ、彼女の次の言葉を聞いた時、少しだけ安心をしたものだし、当然のようにげんなりもしたのだ。


「ケーキが特別なものだとして広く認知されているというのなら、それはきっと贅沢だと思われている事にほかならないと思うの」

「ん、まあそれは事実なんじゃないかな」

「そうかしら。ねえ、あなた。ケーキが一切れいくらくらいで買えるかしってる? ホールサイズじゃなくて、お茶と一緒に食べるくらいの一切れサイズで」

「んー、六百円とか、そんなもんかな」


 正直、僕はケーキなんて全然食べないし、興味もないから値段なんてわかるはずがなかった。

 コンビニに行ったって、スイーツコーナーを横目で見ることはあっても値札を確認できるほどそこに立ち止まることは絶対にない。

 けれど喫茶店でコーヒーとケーキのセットを頼んだらだいたい千円とかそこらだろうし、僕の予想はそれほど大きく外れてはいないだろう。

 六百円もするおやつなんて、贅沢の極みでしかない。


「馬鹿ね、普通は五百円もしないわよ。コンビニとかなら三百円くらいね」

「そんなに?」

「あなたが馬鹿みたいに毎日スパスパ吸ってるたばこよりも安いのよ、ケーキは」


 そんなに馬鹿馬鹿連呼している彼女のほうがよっぽど馬鹿っぽいよなとは口が裂けても言えなかった。

 なにせ僕は毎日ワンコイン溶かしておきながら、ショートケーキ一つの値段すらしらなかったのだ。

 キャビンが四百五十円でホープは二百五十円、メビウスは四百八十円で――なんてたばこの値段なら大抵空で言えるというのに。

 そんな馬鹿なことがあるだろうか。

 いや、僕が馬鹿だったのか。


「つまり君が言いたいのは」

「たばこが贅沢じゃないなら、ケーキだって贅沢じゃない」


 なるほど、これは彼女に一本取られた。

 ケーキは世間で贅沢品だと思われているが、実際はたばこほど高くない。

 毎日社会生活に疲れてたばこに癒やしを求めるのが普通だというのなら、ケーキもまた、贅沢品なんて思われているべきではないということだ。


「まあ、わかったよ。それで、君はケーキはもっとカジュアルに食べていいものだと、そう主張しているわけだ」

「洋菓子メーカーがとっているイメージ戦略なんてどうでもいいのよ。確かにお祝いごとの度に食べるケーキは特別感があっていいわね。私もそう思うし、やっぱり誕生日やクリスマスにはケーキを食べてお祝いしたいもの」

「そういうものかな」

「世の中の女の子の百二十パーセントはそう思っているわよ。あなたがそう思っていなくてもね」

「子供の頃からそういうのには興味なくてね」


 そもそも僕はケーキのあの甘さがどうも苦手なのだ。

 小さい頃、誕生日祝いだなんて言って親に無理やりホールサイズを丸々食べさせられたのがいけないのかもしれない。

 いや、そんな記憶も捏造かもしれないが。


「たばこよりもよっぽど健康によくて、よっぽど精神にもいいわよ」

「それは否定できそうにもないな」

「そうでしょう。つまりね、特別なケーキは特別なケーキとしておいておいて」

「おいておくんだ?」

「おいておくわよ、ハーゲンダッツと百円のカップアイスは別物でしょう?」


 その例えはどうかと思うが、まあ確かに、と納得してしまった。

 納得した所で、ゆっくりとふかし続けていたキャビンがその短い役目を全うし終えそうなことに気づいた。

 慌てて灰皿に押し付け、冷めかけのお茶に手を伸ばす。

 お茶は冷めていたってお茶だ。

 アイスは溶けてしまえばどうしようもないが、お茶はいつのんだって美味しい。

 ケーキは、どうだろうか。

 保存のために冷やしておく必要はある気もするが……それを考えなければいつ食べても美味しいものなのかもしれない。

 もちろん、僕は好きじゃないけれど。


「それで、特別なケーキではない、日常的なケーキというものが欲しくなるわけなのよ」

「日常的なケーキ」

「ええ、カジュアルなケーキと言い換えてもいいわ。甘いものがどうしても食べたくなった時、あなたがたばこに火を着けるような感覚で手を伸ばすためのケーキ」

「……なるほどなあ」


 一体全体、どうして彼女はこんな話をしだしたのだろうか。

 何かに苛立ちを覚えたからグチグチと文句を垂れ流し始めたのではなかったのだろうか。

 今彼女が語っているのは、彼女の主張だ。

 それなりに筋の通った、論文発表と言い換えてもいい。


「わかってくれたかしら」

「ん、ああ、そうだね」


 言いたいことは分かってきたが、しかし彼女の熱意の源泉がわからない。

 仕方がないのでお茶をすすり、曖昧に誤魔化す。


 なんだかお茶を飲んでいたら茶菓子が欲しくなってきたな。

 そういえばさっき羊羹を買ってきたんだった。

 甘さ控えめの、僕でも食べられるやつ。

 控えめと言っても甘いことには変わりないので、彼女好みの味でもあるはずだ。

 帰ってきてすぐに机の上に置いておいたから――ああ、やっぱり彼女がもう皿に出していたみたいだ。


「その羊羹もらってもいいかな」

「……お好きにどうぞ」


 一応貰う前に断りを入れ、適当にフォークで切り分けて口に運ぶ。

 うん、美味しい。

 このお茶によく合う。

 やっぱり羊羹を買ってきて正解だったな。


 それにしても、さっき断りを入れたときに妙に間があった気がするけれど、なぜだろうか。

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あすがこない街 にしだやと @yato_nishida

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