第59話 諦念と降臨

「やめろぉっ! やめてくれ! 助けて、殺さないで!」


 廊下にまで聞こえる叫び声に、タルアンは走った。部屋の前では飯炊きの女が二人、困惑した顔で立っている。


「どうかした?」


 駆けつけたタルアンに女たちはひざまずき、怯えたように懇願した。


「王子様、申し訳ございませんが、お役目を変えていただけませんでしょうか」


「何かあったの」


「はい、お食事とお召し替えを用意していたのですが、殿下が突然叫び出されまして」


 もう一人の女も言う。


「殺されるとおっしゃりながら、辺りの物を投げつけられました。とても私どもではお世話いたしかねます」


「……うん、わかった。ありがとう、ごめんね」


 タルアンがそう言うと、二人の女はそそくさと立ち去った。一つため息を漏らし部屋に入ると、窓際に立つラハムの姿。後ろ手に泰然と外を見つめている。その足下には食事が、皿が、瓶の破片が散らばっていたのだが。


「兄上」


「やあタルアン。外は良い天気だね」


 ラハムは穏やかな笑顔で振り返る。タルアンのよく知る、いつものラハムに見えた。


「少し、部屋を掃除したいのですが」


「ねえタルアン」


 まるで聞こえないかのように、ラハムはまた背を向ける。


「父上は、いつ戻られるのだろうね」


「それは、何とも」


「父上は、私を許してくださるだろうか」


「あ、兄上?」


「父上は、私を殺すのではないか」


「何をおっしゃって……」


「ふざけるな!」


 ラハムは激昂した。


「殺されてなるものか! 殺されるくらいなら、私が父上を殺す! 殺してやる!」


 そして出し抜けに振り返ると、憤怒の形相でタルアンに向かって走り出した。足の裏に破片が突き刺さるのも気付かぬように。


「兄上!」


 逃げる間もなく、ラハムはタルアンの首に手をかけ、壁に押しつける。


「おまえか! おまえなのか! おまえが私を殺すというのか!」


「兄上、落ち着いて、ください」


 首を絞める手に、タルアンの右手が触れた瞬間。バチッ! と火花が弾け、黄色い指輪から雷の精霊ジャイブルが飛び出した。


「このバカタレが!」


 小さな稲妻が走り、ラハムの鼻の頭を焼く。


「ひぁあああああっ」


 情けない声を上げてラハムはのけぞり、腰を抜かしてへたり込んだ。


「待て、ジャイ……」


 言いかけて、タルアンは咳き込んでしまった。


「まったく愚かな雇い主よな。黙って殺されるつもりだったのか」


 腹立たしげなジャイブルに、タルアンは申し訳なさそうな笑顔を見せる。


「そんな怒らなくても」


「怒ってなどおらんわ! 調子に乗るな!」


 その怒声を聞いた途端、腰を抜かしていたラハムは悲鳴を上げて頭をかかえ、身を小さくした。


「た、助けてくれ! 殺さないで!」


「兄上……」


 愕然とするタルアンの頭に座って、黄色い少女は呆れた声でこう言う。


「こやつはもうダメだ。王子など、とても務まらん」


「そんな言い方するなよ」


「ならば、どんな言い方なら満足するのだ」


 タルアンが黙り込んでしまったとき。ドアが静かに開き、そーっとのぞき込んだのは、リーリアの顔。


「兄様?」


「どうしたリーリア。ランシャはいいのか」


「いえ、私が居ても何もできないので」


 リーリアはもう少し広くドアを開け、そして気付いた。床で頭を抱えて怯えているラハムに。しばし呆気に取られていたリーリアだったが、やがて悲しい顔でつぶやいた。


「ラハム兄様も……」


「おまえのせいじゃないよ」


 そう言うタルアンに、リーリアは首を振る。


「私がリーヌラに戻らなければ」


「確かにランシャの事はおまえのせいだ」


「えっ」


 驚いて顔を上げたリーリアに、タルアンは微笑んだ。


「でも兄上の事はおまえのせいじゃない。全部背負い込もうとするな。ランシャじゃあるまいし」


 そして静かな目でラハムを見つめて言う。


「思うんだ。人間って、ときには諦めなきゃいけないんじゃないかって」


「兄様……?」


「偉い人は何事も諦めるなって言うけどさ、無理だよ、何から何まで何があっても諦めないなんて。僕らは神様じゃないんだ、できない事だってある。それは認めなきゃいけない」


 タルアンは顔を上げた。決然と。


「二人で行こう。氷の山脈に」


「ちょ、ちょっと待てぇい!」


 素っ頓狂な声を上げたのは、タルアンの頭に座っていたジャイブル。


「そなた、己が何を言っているかわかっておるのか」


「いやあ、本当言うとわかりたくないんだけどね、でもまあ仕方ないよ。王族の務めだし」


「しかしだな」


 タルアンは静かに微笑んだ。決意を込めて。


「もう、誰も巻き込みたくないんだ」


「……わかった」


 ジャイブルはタルアンの頭から下りると、床から見上げた。


「ならば、こなたも行こう」


「えっ、だけど」


「だけど何だ。こなたは契約に基づいてそなたを護らねばならん。行くしかなかろう」


 するとタルアンは困り顔でこう言う。


「そうは言ってもなあ。さすがに危ないよ」


 呆然とするとはこういう事なのだろう。ジャイブルは目を丸くして、ポカンと口を開けている。


「そなた、もしかして、こなたを心配しているのか」


 対するタルアンは真顔である。


「当たり前じゃないか。ジャイブルはそりゃ人間よりは強いけど、相手はあのザンビエンだぞ。何かあったらどうするんだよ」


 その言葉に、ジャイブルは目に見えて動揺した。


「し、心配は要らぬ。こなたは人間ではないのだ、ザンビエンに食われる事もない」


「だけどケガとかするかも知れないじゃないか」


「ケガくらい怖れるものか」


「僕が嫌なんだよ。ジャイブルにはもう危ない目に遭って欲しくない」


「なっ、何を、何を言って」


 目でも回しているのか、ジャイブルはフラフラになっている。タルアンは優しく言った。


「この指輪の新しい持ち主は、バーミュラとライ・ミンに探してもらうから。ジャイブルはここに残ってよ」


 そのタルアンの気持ちは伝わった。ジャイブルの胸に、痛いほど伝わった。だが。


「た、た……たわけがぁああああっ!」


 ジャイブルの絶叫は、これに驚いたラハムが部屋の奥まで飛んで逃げるほど。


「たわけが、このクソたわけがっ! 何が危ない目に遭って欲しくないだ! 何がここに残ってよだ! ふざけるな! こなたを何だと思っている! こなたの気持ちを何だと思っている! ふざけるな! ふざけるなぁあっ!」


 そして決然と顔を上げ、タルアンをにらみつける。


「一緒に行くのだ! こなたはもう決めたからな。決めたからな! 絶対に絶対に決めたからな! もし指輪を外したりしてみろ、本気で承知せんぞ!」


「ジャイブル……」


「いいではありませんか、兄様」


 いつの間にかリーリアは、ラハムの背をなでて落ち着かせていた。


「私はラミロア・ベルチアと参ります。兄様もジャイブルと一緒で良いのでは。ザンビエンも生け贄以外には手を出しませんでしょう」


「そうだろうか」


 タルアンは少し不満げにそう言う。リーリアは笑った。


「最後くらい、ジャイブルを怒らせない方が良いと思いますよ」


「そーだそーだ」


 ジャイブルも笑った。決まりである。タルアンは苦笑するしかない。


「それじゃ、僕はバーミュラに話してくるよ。おまえはランシャに会っておいで」


 するとリーリアは立ち上がった。


「私も行きます。もう勝手な真似はしないと約束しましたし、ランシャとラハム兄様の事をお願いしたいですから」


「わかった。じゃあ行こう」


 兄と妹が部屋を出た、そのとき。


 全世界に高らかに、ラッパの音が響き渡った。




「何事だい!」


 その音と共にやって来た異様な気配に、バーミュラもライ・ミンも、たまらず外に飛び出した。彼らだけではない。ミアノステスの街中の住人が建物から転げるように出て来たかと思うと、示し合わせたかのように空を見上げる。


 夜の空には月があった。だが、人々は見た。月の隣に音もなく浮かぶ、巨大な白い影を。


 それは逆さまの三角錐。そこから二本の腕が伸びる。顔はなく、脚もなく、しかし背には六枚の翼を広げる。


「おいおい、ありゃまさか」


 動揺するバーミュラの言葉に、ライ・ミンはうなずいた。


「にわかには信じがたいでござるが、天使の降臨にござろう」


「いかにもその通り。いまこの世界に天使が降臨した!」


 その声にバーミュラたちが振り返れば、月とは反対方向の空に浮かぶ、灰色のローブ。周囲の人々も指をさす。ライ・ミンには見覚えがある姿。


「ダリアム・ゴーントレー」


「何だって!」


 目を凝らす魔道士たちの前で、ダリアムは空から降り立った。人々は慌てて距離を取り、周囲に輪を描く。と、ダリアムの周りに光球が舞い、フードの内側を照らさんとした。


「顔を見せな」


 緊張したバーミュラの声に、ダリアムの口元が緩む。


「そなたも変わらぬな。変化なくして進歩なしだというのに」


 そう言ってフードの中から現れた顔を、光球が照らした。


「どうだ、見覚えはあるか」


 ある。その顔かたち、そして何より晶玉の眼。バーミュラは唸った。


「本物だってのかい」


「疑いは晴れたようだな」


「いいや、まだだね! いと厚き岩の精霊よ!」


 バーミュラの叫びと共に足下の砂岩の地面が大きく割れ開き、ダリアムを飲み込むと同時に閉じた。周囲から悲鳴が上がる中、ライ・ミンが呆れたようにつぶやく。


「いささかやり過ぎではござらんか」


「魔道士なら魔法で確認しろって言われたんだろう。人の言う事は聞くもんだよ」


 そうバーミュラが返したとき。


「経験に学んだか。まあそれも進歩ではある」


 ダリアムの姿が元の場所に現れた。音も気配もなく。最初からそこにいたかのように。いや、そこにいたのだ。


「なるほどね、割れ目に落ちた方が幻覚だったって事かい」


 かつての弟子の指摘に、ダリアムはうなずいた。


「理解の速さも相変わらずか。悪くはないが良くもない」


「師匠面するんじゃないよ。亡者が墓の中から何しに現世に現れたんだい」


「随分な言い草だな。もしわれに裏切られたと考えているのなら、それはお門違いだ。自らの未熟さこそを憎むべきであろう」


「その相手の未熟さを盾に自分の行動を正当化するところが気に入らないんだよ」


 この返答に、ダリアムはしばし沈黙した。そして微笑む。


「なるほど。魔道士としてはまだまだだが、人としては成長したと見える」


「おかげさんで、人並みの苦労はしてきたんでね。それで。まさか弟子の成長を確認しに来た訳じゃあるまい」


「いかにも」


 ダリアムは一つうなずくと、空を見上げた。


「いま時が満ち、天使が降臨した。ギーア=タムールを目覚めさせるために。これより彼の存在は霊峰タムールの頂に降り立つであろう。それが何を意味するか、理解できるな」


「ザンビエンの封印が解かれると言いたいのでござるか」


 ライ・ミンの言葉に、ダリアムは再びうなずく。


「ただ封印が解かれても、いまのザンビエンではギーア=タムールとは戦えぬ。力が足りぬのだ」


「なるほど、生け贄を寄越せってか。おまえさん、いつからザンビエンの手下になった」


 バーミュラが身構えた。ライ・ミンは力を抜いた自然体で立つ。戦闘態勢の二人の弟子を見つめて、かつて魔人と呼ばれた大魔導士は楽しげに笑った。


「手下になったつもりはないが、約束は守らねばなるまい」


 ダリアムが右手を振ると、ほとばしるように現れる白い刃。バーミュラは舌打ちした。


「そういや、レキンシェル持ってたんだったね」


「どのみち不利なのは変わらんでござるよ」


 ライ・ミンのつぶやきに、バーミュラは苦笑するしかない。だが、そのとき。


 真上から落ちてくる小太りの人影。キナンジが剣を振り下ろす。ダリアムはレキンシェルを軽く動かし、それをはね除けるが、そのときすでに背後二方向からルルとナーラムが突きの態勢に入っていた。ダリアムが僅かに眉を寄せると、見えない壁にぶち当たったように飛ばされる二人。しかしそちらに意識が向いた瞬間、反対方向より地面を舐めるような低い位置から隊長の大剣が襲いかかる。これにはダリアムも腕を振るってレキンシェルで受け止めるしかなかった。

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