第58話 渦巻く瘴気
神教国ダナラムの心臓部、フーブ神殿の入り口に現れた巨躯。その右手に青い聖剣を握って。
「入り口か」
ゲンゼルの口ぶりに、背後からかかる声が二つ。
「おやおや何か、ご不満でも」
「いやいやまさか、ご不満など」
振り返れば二人の道化が踊っている。ゲンゼルはそれを一瞥して神殿の中に入った。
「もう少し奥へは入れなかったのか」
「そこはそれそれ、イロイロ都合が」
「やはりあれこれ、邪魔もあるし」
そう言う道化の向こう側から、黒い僧衣に身を包んだ聖滅団の面々が、整然と階段を駆け上がってくる。さらにゲンゼルの正面にも、黒衣の集団がズラリと並んだ。誰も慌てた様子はない。だが待ち伏せをされた訳でもないようだ。
「何者だ」
黒衣のリーダーらしき男が落ち着いた声を上げた。ゲンゼルと気付いていないか、気付いてはいるが確信が持てないのだろう。つまりゲンゼルの登場は想定外であったが、想定外の事態にも動揺しないよう鍛え上げられているのだ。鳥の翼を模した鉄仮面を付け、その中央には黄色い線。
「私は聖滅団神殿守備隊長『風月』。もし名を持つのならば聞いてやろう」
その声と共に、ゲンゼルの前後を囲む黒衣の集団は剣を抜いた。王の口元が僅かに微笑む。
「我が名はゲンゼル・ダン・グレンジア。帝国アルハグラの名の下に、フーブを滅しに参った」
右手の聖剣リンドヘルドが青く輝く。しかし風月に動揺はない。
「そうか。ではここを通す訳には行かんな」
「止められると思うか」
「風切や風音が倒せなかった怪物を、私に倒せるはずはない。だがここはフーブ神殿。我らが命を賭しておまえの力を僅かでも削れば、フーブ神が奇跡を起こされるだろう」
それはあながち虚勢とも言えまい、とゲンゼルは思う。絶対に守るべき最終防衛線の構築にあたって、その守る対象であるフーブの戦力を計算に入れている。それができる人間を配置している。まさに適材適所。ダナラムには気に入らない事も多いが、人材の使い方に限れば優秀であると感じた。ただし。
「邪神の奇跡に価値などない」
ゲンゼルは一歩前に出た。同時に黒衣の集団の一部が無言で飛びかかる。しかしほんの一瞬の後、全員が弾き飛ばされた。宙を舞う青い輝き、輝き、輝き。六十四の断片に分かれたリンドヘルドが、王を護るようにその周囲を回っているのだ。
「貴様ら如きでは話にならぬ。フーブを出すが良い」
帝王は前に進んだ。足下に二人の道化を踊らせながら。
「出せよ出せ出せ、すぐに出せ」
「出さねば鼻毛を引き抜くぞ」
しかしいま、道化の言葉など耳には入らない。なるほど、これは風切でも風音でも敵わぬ訳だ。桁が違う。その人生において初めて相対する次元の存在を前に、風月は静かに剣を抜き放った。
遠雷のように微かな振動が、空間に響いた。見上げるジクスにフーブは告げる。
「ゲンゼルが神殿に入った」
「ボクが行った方がいいのかな」
小首をかしげるジクスを見つめて、フーブは微笑んだ。
「聖剣リンドヘルドをギーア=タムールに渡したくないのなら、おまえが奪う事だ」
「君は何もしないつもりかい」
「神は無闇に顕現せぬもの。天界はこちらの動きを見ている。迂闊に手札を曝す訳には行かない」
つまりは自身がこの世界で最も重要な存在であると言いたいのだ。気に入らない。とは言え、リンドヘルドをギーア=タムールには渡せない。それはフーブだけの、神教国ダナラムだけの問題ではすでになく、皇国ジクリフェルの存亡に関わる問題でもあるのだから。
「仕方ない。ボクが何とかする」
「見解は一致したようだな」
「ただ」
ジクスは言う。
「ダナラムがザンビエンに手を出した理由をまだ聞いてない。君にはいまの状況が見えていたはずだよね」
「言ったはずだ。すべてが見えている訳ではないと。少しは信用してもらいたいものだ」
ジクスはしばらくフーブを見つめていたが、やがて小さくため息をつく。
「まあいいや。とりあえずこの話は預けておく」
「随分と疑り深くなったものだな」
「大人になっただけだよ」
そしてフーブに背を向けた。
「振り返っちゃダメなんだっけ」
「そうだ、振り返るな。ただ前だけを見て進め」
「じゃ、サヨナラなんだね」
「ああ、もう二度と会う事はない」
「……行くよ」
ジクスは歩き出した。元来た道を、坂の上に向かってまっすぐに。後ろは振り返らなかった。振り返るまでもなかった。神様然としていたフーブの輝く気配はあっという間に消え去り、何か恐ろしく暗い、腐敗臭を放つが如き気配にすべて飲み込まれたのを背中に感じる。おそらくいま、背後では黒い瘴気が渦を巻いている事だろう。暗黒の獣が牙を剥き、振り返るのを待ち構えている事だろう。ジクスの知っている銀色の風はもうどこにもいない。それを理解できたのが、ただ一つの収穫だった。
元々、防御には絶対の自信があった。常に守りを中心に戦いを組み立てる。風切を相手にした試合でも三本に一本は取れた。しかしその戦法がまるで通じない。神殿守備隊は戦力として必ずしも最強ではないものの、風月が時間をかけて鍛え上げてきた部隊である。守りに徹すれば数倍の戦力にも耐え得る。数倍程度ならば。
いま、神殿守備隊で立っているのは風月ただ一人。相手も実質ただ一人。なのに三十余名の守備隊が一瞬で壊滅した。六十四片の青い断片が、風月以外のすべての剣を折り、すべての剣士を斬り伏せたのだ。しかも。
風月は確信していた。相手は全力を出していない。当然だ。ゲンゼルにとって、ここは敵の本拠地である。全力で戦いなどしたら、どんな罠にはめられるか知れたものではない。周囲に気を配り、変化に対応する余裕を維持しながら、神殿守備隊を一瞬で壊滅させる。それが可能な実力差があるという事だ。
視界の隅で青い光がきらめいた。風月の剣がそれを受ける。柔らかく、風に吹かれる若木の小枝のように刃を当て、攻撃を受け流した。この巧みな剣技によって致命傷は免れている。しかし剣はもうボロボロだ。もう何度も攻撃を受けられないだろう。ゲンゼルは歩みを止めず近付いて来る。
「鍛え抜かれた技術は見事。なれど、いまは相手をしてやる余裕はない」
と、余裕たっぷりな言葉。風月は思わず苦笑した。
「そこをどけ、などとは言わないでもらいたい」
「意地でも逃げる気はないか」
「もはや逃げる気力もない。踏み潰して行けばよかろう」
「そうか。ではそうしよう」
六十四片の青い輝きが、ゲンゼルの手元に集まった。そして再び聖剣リンドヘルドを形作る。その豪腕が、振られた。真上に。
落下してきたオレンジ色の火球が、リンドヘルドの刃の上で止まる。斬り割ろうとしたゲンゼルだったが、火球は想像以上に強靱であり、簡単に割れそうにはなかった。いつまでもその灼熱に身を焼かれていては、いずれ参ってしまうだろう。ゲンゼルは聖剣の角度を変えると、神殿の入り口に向かって火球を弾き飛ばした。
入り口を拡大するかのように大穴を空けて、外に転げ出て行く火球。ゲンゼルはそちらに一瞥をくれると、すぐに天井に視線を向けた。その足下では二人の道化が歌い踊る。
「出たよ出た出た、炎竜皇」
「影じゃないない、魔族の王」
天井付近に浮かび、ゲンゼルを見下ろすジクスが微笑んだ。
「二人は相変わらず元気だね」
すると道化はケタケタ笑う。
「いえいえそれは、おかげさま」
「毎度ボチボチ、お世話さま」
「魔族にお世辞は似合わないけどね」
「魔族に王様は要らないけどね」
ゲンゼルは静かに見上げる。まるで見下ろすかのように。
「このリンドヘルドが望みか」
ジクスはうなずく。
「ギーア=タムールに渡す訳には行かないから」
「そのためにフーブと手を組むなど、愚かな」
その言葉には僅かに感情が垣間見えた。ゲンゼルは続ける。
「青璧の巨人がそれほど怖いか」
「そりゃ、君よりは随分怖いよ」
「怖れる者に勝利はないぞ」
「怖れを知らぬほど若くもないしね」
「ならば、余の事も怖れるが良い」
「怖れてるよ。これでも十分過ぎるほどに」
「右腕がないようだが」
「左腕があるから問題ない」
「もう言い残す事はないな」
「君にないならボクにはない」
次の瞬間、ゲンゼルの姿は床になく、天井付近ではリンドヘルドの青い光がジクスの燃える左手に包まれていた。
「できれば君とは戦いたくなかったけど」
聖剣の刃を握りしめながらジクスは言う。しかしゲンゼルは小さなため息を返した。
「貴様は王には向かぬ」
「知ってるよ、それくらい!」
ジクスは左手を振り回し、ゲンゼルをリンドヘルドから引き剥がそうとした。だがゲンゼルは離れない。それどころか体勢を崩しながら強く聖剣を引くと、ジクスの炎の左手がスパッと割れた。
無論、斬り割られた左手はすぐ元に戻る。だがさすがに聖剣と呼ばれるだけの事はある。そこいらの魔剣や妖刀とは次元が違う。リンドヘルドの前では、炎の左手は盾にならないという事だ。地竜の力だけでは苦しいかも知れない。
ゲンゼルは稲妻のように宙を駆け、ジクスの額を目掛けて突きを放つ。それを紙一重でかわし、左手を振る炎竜皇。狙いはリンドヘルドではなく、ゲンゼルの体そのもの。聖剣を焼き切る事は難しかろうが、肉体ならば容易く炭にできる。だが炎の手は『壁』に押しとどめられた。リンドヘルドの刃が縦方向に二つに分かれ、その片方が青く輝く三十二の断片となり、ゲンゼルの側面に壁を作っているのだ。
半分の細身となったリンドヘルドが胸を貫かんと狙う。ジクスは身をよじって急降下するが、すぐに床にぶつかる。斬り下ろす青い刃をかわして飛び上がったものの、今度は天井にぶつかる。神殿の中は、この二人が戦うには狭すぎるのだ。ならばどうするか。答は至って簡単である。
爆音がとどろき、フーブ神殿の屋根が吹っ飛んだ。グアラグアラの市街地に石の雨が降り注ぐ。
「フーブの怒りを買うぞ」
見上げるゲンゼルは、やや呆れているようにも見える。
「君を倒したら謝っとくさ」
空に舞うジクスの姿は変容していた。背に二枚の翼がある。左に赤い、右に黒い、竜の翼が。
「時間がない。一気に片を付けるよ」
ジクスの頭上に、人の頭ほどの球体が現れた。その表面では赤と黒が、禍々しい火焔太鼓のように渦を巻く。周囲の空気が悲鳴を上げながら、その中に吸い込まれて行った。しかし、ゲンゼルは笑う。
「まだわからんようだな」
リンドヘルドは一本の剣となり、切っ先はジクスに向けられる。
「貴様はすべてを捨てられぬ。それが弱さよ」
「黙れ」
ジクスの燃える左手が、頭上の球体をつかんだそのとき。
全世界に高らかに、ラッパの音が響き渡った。
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