第57話 降臨問答
風の巫女は言う。
「天使が降臨すればギーア=タムールの封印は解かれ、ギーア=タムールの封印が解かれれば、自動的にザンビエンの封印も解かれます。両者は雌雄を決せんとするでしょう。ただし、その場に足りない物が一つあります」
「足りない物?」
炎竜皇ジクスは少し首をかしげたものの、すぐに気付いた。
「……聖剣リンドヘルドか」
そう、あの帝王ゲンゼルの携える青い聖剣リンドヘルドは、本来ギーア=タムールの持つべき得物。風の巫女はうなずき、言葉を続けた。
「封印が解かれれば、ギーア=タムールはゲンゼルの元に現れるでしょう。その後ろにザンビエンを伴って。ゲンゼルはそのとき滅ぼされます」
「でもゲンゼルはいま、このダナラムに居るんじゃ」
「その通り。ギーア=タムールとザンビエンは、このダナラムで戦端を開く事となります。だからこそ、フーブはあなたを必要としたのです」
そう言う風の巫女を、ジクスはじっと見つめる。しばし後、こう言葉を口にした。
「ボクにフーブと共に戦えって事?」
「あなたはゲンゼルがダナラムに侵攻したとき、手を差し伸べてくださいました。そのときの約束は、まだ生きているはずです」
ジクスは小さく笑った。
「ボクの命を助けたから、あの件はチャラになった訳だ。で、約束だけはまだ生きているから手伝えって話だよね」
風の巫女も小さく微笑む。
「あなたにとっても無益ではありますまい」
「そりゃあね。ザンビエンであれギーア=タムールであれ、一人で立ち向かうのはしんどいよ。フーブの協力が得られるなら、ボクらにとっても有り難い。だけど」
炎竜皇は一つため息をついた。
「やり方が気に入らない。少なくともボクをここまで引っ張って来るのなら、フーブが姿を見せるべきだよ。巫女などではなくね」
その瞬間、ジクスの耳元で巨大な音が爆発した。
「何と畏れ多い!!!!!!」
三老師の一人、『大口』のハリド師が思わず口を開いてしまったのだ。ジクスは少し不快げな顔を見せると、静かに立ち上がった。
「畏れ多いってどういう事か、教えてあげようか、子供たち」
三老師は思わず逃げ腰になる。両者の間に手をかざしたのは、風の巫女。
「フーブとの対面をご所望ですか」
「ボクが望んでいる訳じゃないよ。フーブが望むべきじゃないかと思うだけでね」
にらみつけるジクスに対し、巫女は微笑みを崩さない。
「わかりました。では炎竜皇にあられましては、フーブとご対面いただきたく願います。ただし」
「条件を付けるのか」
不服そうな炎竜皇に対し、巫女は小さく一礼した。
「女の素顔を見せよとおっしゃるのです。殿方には約束事をお守りいただきとうございます」
「約束事?」
「はい」
風の巫女は顔を上げる。
「フーブと対面された後、こちらに戻られる際には」
そして、こう言った。
「決して後ろを振り返られませぬよう」
「天使が降臨すれば、青璧の巨人の封印が解かれます。すなわち、彼が封じていた魔獣ザンビエンもまた封を解かれるという事。そうなれば何が起こるかはご理解いただけましょう」
魔道士ダリアム・ゴーントレーの言葉に、ゲンゼルは一瞥をくれた。
「そうか。ギーア=タムールがここに来るのだな」
「馬鹿な」
それは風切のつぶやく声。
「巨人が目覚めるなど、世迷い言だ」
「おまえたちが信じる必要はない。激流に流される木の葉が行く末を心配しても意味がないように」
ダリアムは青白く輝く冷たい視線を送った。
「そなたは天界と結んでいるのか」
ゲンゼルはダリアムに問う。
「いいえ。我が目的はただの私怨。それを晴らすために、利用できるすべてを利用しているだけの事」
「もし人の世界を少しでも大切に考えるのなら、いまはフーブに協力する事を選ぶべきであろう」
「あなた様はいかがなさるのですか」
「王の考えるべきは領地の事である。聖魔の争いなど知らぬ。立ちはだかる者は神であろうと斬る」
魔道士の口に浮かぶ満足げな笑み。
「それでこそ帝王にあらせられます」
王は二人の道化を見つめた。
「ソトン、アトン、道を開け。ギーア=タムールの目覚める前にグアラグアラを落とす」
道化はケタケタと笑いながら踊る。
「そのお願いは高くつくよ」
「だってフーブの本陣だものね」
「危険がいっぱい、罠がいっぱい」
「ボクらは疲れて精一杯」
ゲンゼルの顔に小さな笑みが見えた。
「できぬとは言わぬのだな」
「失敬な。ボクらを誰だと思っているのか」
「それは言えない、あしからず」
二人の道化がポーズを決めると、その間の空間が丸くゆがみ、銀色の光が漏れてくる。
「さあ、ここに飛び込んで!」
「フーブはすぐに気が付くよ!」
ゲンゼルは迷わず身を翻し、その空間へ飛び込んだ。と、同時に空間は跡形もなく消え去る。二人の道化もいつの間にか居なくなった。
「さあて、あとは野となれ山となれ」
楽しげな声はダリアムから。当惑する風切と風音の二人に笑顔を向けた。
「これでもう、私はおまえたちと戦う理由はなくなったのだが、どうするかね」
「ふざけるな!」
いきり立つ風音を、風切が抑える。
「いまはグアラグアラに急がねばならん」
「だが放っておくのか、コイツを」
「そうだ」
断言する風切に、風音は反論できない。
「これ以上、時間を無駄にはできん。急ぐぞ」
風切は風音を連れて、流星のように天を駆け去って行った。グアラグアラの方向に。
遠い西の空が夕闇に落ちる頃、霊峰タムールの頂には静寂が満ちていた。鎚の音はない。月光の将ルーナは待っていた。時が満ちるのを。あの後、ランシャと氷のゴーレムたちが戦い魔剣レキンシェルが奪われた後、灰色のローブの魔道士ダリアム・ゴーントレーの「影」が現れ告げたのだ。間もなく時が満ちると。
時が満ちれば天使が降臨し、兄の封印は解かれる。それが事実なら嬉しい報せだ。たとえこれまでの自分の行為がすべて無駄であったとしても、後悔はない。ただ。
天界の狙いは何だろう。かつて自分たち兄妹は、百万の聖騎士と共にこの世界の平和と安定のため大地に降り立った。それからいまに至るまで、天界は何もしなかったのに。
不遜かも知れない。ルーナはそう思いもした。天界とこの世界では時間の流れる速さが違う。この世界の幾百年は、天界の数ヶ月に等しいと言われる。対応に時間がかかるのも無理はない。そもそも天界の判断に間違いなどあってはならない。我らはそれを信じるしかないのだ。
だがその信頼は盲目的とは言えないだろうか。思考の放棄ではないのだろうか。果たして我々の手に触れられる場所に、絶対の正義や究極の正解など存在するのだろうか。もし存在しないのならば、我々はいったい何のために戦うのか。
その解答は、天使が示してくれるかも知れない。だからルーナは待つ。降臨と解放を。その先に、再び戦乱が待つのだとしても。
ランシャの眼が開いた。その傍らでうなだれていた少女は、歓喜のあまり悲鳴を上げそうになり、しかしランシャの口からこぼれた言葉に息を呑む。
「……リン姉?」
ランシャは驚いたように瞬くと、リーリアの顔を不思議そうに見つめた。
「リン姉じゃない。リン姉はどこ? ここはどこ?」
リーリアはひとつ深呼吸をすると、ぎこちない笑顔でこう言った。
「ここはミアノステスの街です。リンさんは、ここには居ません」
それを聞くと、ランシャの顔は悲しみに崩れる。
「どうして? 何でリン姉が居ないの? 嫌だよ、そんなの嫌だよ。一人なんて嫌だ」
「大丈夫、一人じゃありません。私たちが居ますから」
そう言って握ったリーリアの手を、ランシャは振り払った。
「おまえなんか知らない! リン姉、リン姉どこなの!」
その声を聞きつけて、隊長やバーミュラたちが集まって来る。
「何だい、何の騒ぎだい」
「どうした、ランシャの目が覚めたのか」
しかし周囲を「知らない大人」に囲まれたランシャはパニックを起こし、部屋の隅で頭を抱え、背中を丸めて泣き始めてしまった。
「嫌だよお、怖いよお、リン姉助けて、リン姉」
リーリアは声もかけられず、呆然と立ち尽くしている。そんな妹を、タルアンは離れた場所から見つめていた。
銀色のもやがかかる明るい闇を、ジクスは下る。長い長い坂道が延々と続く。行く末は見渡せず、振り返れど来し方も見えない。ただ足下だけを見つめて坂道を下へ下へと進むしかなかった。
あのフーブ神殿の奥まった場所から、銀色の光に包まれここに飛ばされて、どれくらい時間が経ったろうか。ジクスは少し疲れている事に気が付いた。本来なら有り得ない話である。天竜地竜の無限の力が送り込まれ続ける肉体が、疲れを覚えるなどあるはずがない。
「ここは切り離された世界」
突然聞こえた女の声に、ジクスは立ち止まり身構える。すると銀色のもやが薄まり、目の前には荒野が開けた。その真ん中に、ポツンと一人立つ姿。肩までの銀色の髪を揺らし、見覚えのある少女が微笑んでいた。
「天竜地竜の力も、ここまでは及ばない」
ジクスが三歩ほど近付くと、鋭い声が飛んだ。
「そこで止まりなさい」
足を止め、ジクスは見つめる。
「フーブ、なのか」
「お久しぶり、ジクリジクフェル。それともいまは炎竜皇ジクスと呼んだ方がいいの」
ぶっきらぼうな言いようは、ジクスの記憶の中に居るフーブそのままである。
「君とはもう話せないのかと思っていた」
そう言うジクスに、フーブは少し困ったような顔を見せる。
「だって話す事がないもの」
「ボクにはあったんだ。君と話したい事が」
「じゃあ、いま話しなさい。こんな機会は二度とないから」
しかしジクスは小さく苦笑すると、首を振った。
「いや、まずは用件を済ませよう。天使が降臨するのは間違いないのか」
「間違いない。巫女がそう言ったでしょ」
「最初から知ってたのか」
「最初からは知らない。私の力でも、未来のすべてが見える訳じゃないし」
「天使の目的は何。ギーア=タムールの封印を解くだけなのか」
「それも知らない。でもギーア=タムールの封印が解かれるだけで十分に脅威でしょ。人間にとっても、あんたたち魔族にとっても」
「ギーア=タムールが動き出せば、ザンビエンも目覚める」
「ザンビエンには人類とも魔族とも敵対する気はない。ただ視界に入らないだけとも言うけど」
ジクスはまた苦笑する。
「ジクリフェルもダナラムも、もうザンビエンを敵に回してるじゃないか」
「ザンビエンは根に持つものね。でも、ギーア=タムールより先にこちらを攻めようなんてしない。必ずギーア=タムールとの決着をつけようとする。そういう意味では単純な相手よ」
その単純な相手に、ダナラムが蹂躙されるというのにか。そう言いたかったが、ジクスは言葉を飲み込んだ。それより先に確認しておかねばならない事がある。
「聖剣リンドヘルドをどうするつもりなの。まさかギーア=タムールに渡す気じゃないよね」
「渡さなきゃ意味がないじゃない。それともザンビエンに一人勝ちさせろとでも?」
「でも、もしギーア=タムールがザンビエンに勝ったら、一番困るのは君たちだよ」
天界にとってこの地上でもっとも
「この地上は人と魔と精霊の世界。天界の異分子に何ができるものですか」
その自信に満ちた笑顔に、ジクスは何か薄ら寒いものを感じた。
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